「メンタルマップ」 長崎県  深潟(ふかがた) 睦(むつみ)  メンタルマップ、それは私たちがランドマークを手掛かりにして移動する際、頭の中に、心の中に、描く地図のことである。この地図を手掛かりに導かれて、行きたいところへ出かけ、目的を果たしている。日常の買い物など小さいことから、進学や就職のための手続きなど人生の大事な出来事にかかわる用件、家族や友人との余暇活動など豊かな人生を送ることにつながる時間を過ごすために出かけることもある。  これまで歩んできた人生を振り返っても、その歩みを導いたメンタルマップが幾重にも重なり交差してつながって存在していることに気づく。  私は生まれつきの視覚障害で、幼少期からつい十数年前までは弱視だった。小中学校時代は地域の学校に通学したが、まだ盲学校の地域支援のシステムはなかった。今では盲学校が地域支援の取り組みとして当たり前に行っている地域在住の弱視の児童生徒への教育相談も当時は体制がなく、当時は盲学校で研鑽を積まれた先生がボランティア的に、無給、休日返上で単眼鏡やルーペの使用法の指導を根気よくしてくださった。自らも視覚障害だった両親は、周囲の晴眼者の同級生と対等に勉強するために、晴眼者の何倍も努力することを幼少期のころから口酸っぱく言い聞かせていた。自分自身もそのようにしてきた両親の後姿は、口酸っぱく発せられる言葉以上に子供の私には説得力があったのだろう。私は両親から教えられてきたことは当然と思い小中学校時代を過ごした。思うように勉強できたのは単眼鏡やルーペの使用法を指導してくださった先生のおかげである。  中学生の時、急激な視力低下で悩んだ。盲学校に転校したほうがいいのだろうか、と。定期試験も自力で問題を読んで解答を書くことが難しい状況にまでなったとき、一人の授業担当の先生が、「もう受験できません」といった私に、「みんなと一緒に勉強したんだから、みんなが受ける試験は受けよう、読めないなら別室で読むよ、解答を言ってくれたら書くよ」と言ってくださった。そういう方法があるなど思いつくこともなかった私は、その先生への感謝の気持ちと、つらかったけど頑張っていてよかった、という思いでいっぱいになった。それから、私は将来の夢を持つようになった。「学校の先生に、それも盲学校ではなく地域の学校の先生になって、そんな学校で頑張っている弱視の生徒のために働きたい」という夢。私の悩みは消えて、「盲学校に転校して、自分に合った環境でしっかり勉強して、夢を実現するんだ」と心が決まったかに思えたとき、父が、「卒業までは今の中学校で頑張れ、せっかく今まで頑張ったんだから、あと1年半、何とか頑張れ、そうしないと、将来履歴書を書くとき、盲学校中学部卒業と書くことになる、今の○○中学校卒業と書いてほしい…」、といった。当時の私は、そのような将来書く書類上のことなどどうでもよく、とにかく自分に合ったところで勉強したいという思い、今の環境で無理してこれ以上頑張るのはちょっと辛い、という思いが強かった。今になって思うが、父はなにも盲学校だから行かせたくないとか、ましてや盲学校への差別的な感情などはなかったのだ。自身も盲学校卒業である。普段あまり私の勉強のことなど多くを語らない父の、精一杯の私への親心ではなかったのか。  私は高校から県内の盲学校へ通うことにした。入学して第一印象は、みんな周りは同じ境遇の人、これまで恥ずかしくて言えなかった通学途中で転んだこと、バスを乗り間違えたこと、人にぶつかったと思って謝ったら電柱だったことなどが、日常の笑い話になって共感しあえる、こんなほっと気持ちが安らぐ世界があったのか、ということだった。高校の3年間は、とにかく友達と過ごす時間が楽しく、部活動や生徒会活動など充実していた。今まで横目で見るしかなかった憧れの学校生活をしている実感があった。体育の時間は学年を超えて1年生から3年生まで女子生徒全員での授業、騒いで叱られたことも私にはあこがれていた学校生活の一部として暖かい思い出になっている。  勉強は、となると、周りには私が思っているような「大学に進学して学校の先生になる」という進路を考えて勉強している人はいない環境で、何をどうしていいかわからず壁にぶつかっていた。その時、盲学校に赴任してこられた弱視の先生がおられた。着任のごあいさつの中で、「私も弱視です。皆さんの気持ちがわかると思います。一緒に頑張りましょう」と言われたのを聞き、「これだ」と思った。私と同じ弱視の人が今先生になってこられた。私は学校で頑張っている視覚障害の人のために働きたいと思っている、この先生のようになることでその夢を実現できないか、と考え、その先生に相談するようになった。盲学校以外の学校で働きたいという夢はかなわなくても、地域の学校で悩んで苦しい思いをして、盲学校に転校してくる人もいるかもしれない、盲学校で視覚障害の人のために頑張ろう、と、盲学校専攻科理療科の教員になることを目指した。  私は、地元の盲学校高等部普通科を卒業後、東京の盲学校の高等部専攻科理療科に入学し、鍼灸師、あん摩マッサージ指圧師の資格取得後、同じ東京にある、盲学校の専攻科理療科教員になるための学校で2年間学んだ。専攻科理療科の3年間は寄宿舎生活、教員になるための学校生活の2年間はアパート暮らしをした。初めて親元を離れ、すべてが新鮮で戸惑うこともありながらのこの5年間も、今の私の教員生活にとってはとても重要な意味があったと感じている。  地元の出身校である盲学校で教員になる夢がかなって、教員生活は充実したものである。今までたどってきた道を後から歩いて来る視覚障害の生徒たちのために、授業をし、相談に乗り、自分の経験したことが役に立ってよかったと感じるときほど充実感を味わう時はない。  盲学校の教員だけでは満たされないものがあったのだろうか。就職後5年目にして、自学で盲学校の自立活動の教員の資格を取得した。このことで、地域の学校に在籍している児童生徒やその保護者、担任している地域の学校の先生方の相談に乗ったり視覚補助具の使い方のアドバイスをする教育相談の仕事にかかわるようになった。遠方まで1日がかりで出張するときもある。目まぐるしく多忙だと感じることもあるが、日々の学校内での授業をしているとき以上に充実感を感じるのが自分でも不思議だった。ふと思った。私がもともと描いていた夢は、盲学校以外の学校で頑張っている視覚障害の人のために働きたいというものではなかったか。今、盲学校に籍を置きながら、教育相談の仕事を通して、その夢がかなっているのだ。  昨年、私が教育相談でかかわった弱視の一人の女性が、盲学校教員として赴任した。盲学校の教員になろうと目指すきっかけとなったのが教育相談だったという。自らの経験を活かし、彼女にしかできない仕事がこの職場にはたくさんある。彼女が頑張った達成感や充実感、苦労やつらさ、すべてをエネルギー源としてはばたくために、私にとっての両親や無給で視覚補助具の訓練をしてくださった恩師、教師を目指そうと思ったきっかけの中学校時代の先生、自らの経験を生かして盲学校生徒とかかわろうと発信してくださった盲学校の弱視の先生のように、私も彼女にとってのメンタルマップの一角にいることができていればこの上ない喜びである