「盲と光と志」 東京都  内條(ないじょう) 雲嵐(うらん)  春まだ浅い日、私は病床に伏せていた。看護師さんの丁寧な眼瞼ガーゼ交換さえも、その際に角膜に触れる微かな空気の流れさえも、私には過敏に感じられ痛みを伴った。  そうだ私は中途視覚障害者になったのだ。失明した瞬間の激痛に比べれば、こんなのは乗り越えられると、何度も自分に言い聞かせて、やり過ごした毎日だった。  しかし、私には嬉しい希望もあった。医師からは、片眼だけは僅かだが視力が残る可能性があると告げられていたからだ。ただ、その僅かな視力さえも、いつまで続くか約束はされていない。私は子供の頃から、老後は沖縄の青い海を見るという目標を持っていた。視力の猶予を知った今、私は夢を老後ではなく、退院後の直近の夢とした。  待ちこがれた退院の日、友人が車で迎えに来てくれた。外の光は想像以上に眩しく、一人では歩けなかった。以前と違う私の姿に、友人は戸惑った表情のまま、高田馬場にある視覚障害者の用具店で白杖を購入する為に連れて行ってくれた。  数ヶ月間の自宅療養ののち、私の姿は羽田空港にあった。先日はじめて手にした白杖。この白杖と共に、私は沖縄の地に向かうのである。退院した喜びと、夢が叶う期待に私は胸を躍らせていたのである。  「お手伝いの必要なお客様」というカウンター窓口で手続きをし、障害者手帳を提示して沖縄行きの機上の人となった。何もかも、晴眼の時とは全てが違っていた。 唐突に客室乗務員が、私に詰め寄ってきた。 「お客様は、目の見えない人の筈なのに何故、ご自分の身の回りの事ができるのですか?」 「嘘をついて、ご利用していませんか?目の見えない人は、ご自分の事が何一つできない筈です。その理由をお答えください。」  私は突然のことに理解できなかった。  白杖使用者への誤解や認識不足だと、今の私であれば笑い飛ばせるであろうが、そのときの私には、はじめて体験した視覚障害者への、まさに洗礼であった。片眼に若干の視力が残っている事が何故、機上で問題になるのか。私は、嘘はついてない。きちんと手続き通りに搭乗してきた。全盲の人が自分の事が何もできないという発言も気になってしまった。それまで常に前向きでいた私の心に、暗い影を落とした出来事だった。  沖縄の夕暮れは目映い。どこまでも続くあぜ道に真っ赤に燃える夕陽は、術後の私にとって、殺人的な目眩しだった。宿の女主人に心配されたのに、一人で出てきてしまった事を非常に後悔した。私は、何度も白杖で周りを探ってみたが、自分がどこにいるのか、わからなくなっていた。何かにあたって前にも横にも後ろにも進めない。ザワザワ音がするだけで、何に囲まれているのか。どこかに迷い込んでしまったのだろう。大きな声を出して助けを求めても、人里少ないこんな場所では、私の叫び声は、かき消されていくばかりであった。  小一時間たったであろうか、車のエンジンの止まる音がした。背後から私は、農作業帰りと思われる年配男性に引っ張り出されて、その場から救出されたのである。  夕闇迫る中、親切な彼は言った。 「君が迷い込んだ所は、三メートルも高さのあるサトウキビ畑だったさー。」  風がある日であれば、ザワザワ揺れるのが当たり前だから、それだと気が付かなかったとの事。そのような場合、刈り入れの時期まで気がつかれない事は多く、昔から亡くなっている事故があると言っていた。私は、そこで初めて状況を理解し恐怖に震えたのだった。彼はトラクターで宿まで送ってくれた。宿の女主人は、私の煤汚れた姿を見て大層心配してくれた。  私は泥でシワシワになった靴を見つめ、退院時の友人の表情、客室乗務員の言葉などが浮かんだ。昨日までの私と、今の白杖を持った私自身は、何も中身が変わらないのに。人からの扱いの何かが違う。他人に迷惑しか、かけていない。私は一体、何をしているのだろうか。  私は深夜、再び宿を出てタクシーに乗った。降り着いた先の岸壁に一人で佇んだ。耳を澄ますと、波の砕ける激しい音と、吸い込まれる様な深い闇の海があった。荷物を置いてきてしまった宿には、申し訳ないと思いながら、履物と白杖を揃えた。先ほどのタクシーの運転手が不審に思い、次に乗せた乗客と一緒に岸壁に引き返した時、既に私は海に身を投げていた後だった。沖縄の人は優しい。タクシーの乗客が海に飛び込み、皆で私を助けてくれたのだ。泣きじゃくる私に、駆けつけた宿の女主人が何度も私を強く抱きしめて言った。 「内條さん。ぬちどぅ宝だよー。」  沖縄の方言で命は宝という意味である。そしてタクシーの乗客だった男性が翌日、ひめゆりの塔に連れて行ってくれた。沖縄は平和を願う島である。沖縄戦で四人に一人が命を落とした。私が身を投げた場所は、地上戦になった最初の上陸地点だったらしい。野戦病院に動員された学生さんの資料に触れ、私は自分の愚かさを恥じていた。宿の女主人は、私の心が落ち着くまで、いつまでも居てもいいと言ってくれて家族同然に、ずっと置いてくれた。  旅立ちの朝、「また沖縄に必ず帰っておいで。」と彼女は、サーターアンダーギーを作って持たせてくれた。那覇空港では、私を救助してくれた男性らが、千切れんばかりに手を振り、皆で見送ってくれた。  しかし東京に帰ってからも、日常生活の不便さから、私の心は晴れる事は無く一人で抜け殻の様であった。  そんな折り、東京都知事が、アイマスクをして点字ブロックの通学路を歩き、盲学校に訪問する記事を知った。頭の片隅にだけあった盲学校という存在。そこに行けば、私は一人ではなくなるのだろうか。勇気を出して連絡をし、盲学校に訪問してみた。出迎えてくれた教諭は、全盲の男性であった。彼は同じ障害を持つ人々が、手に職を持ち、社会に出ていく支援をする為、猛勉強をされ教員になられたという。まさに努力の人であった。素晴らしい志の方である。男性教諭は私の、これまでの事情を聞き、盲学校の受験を勧めてくれた。そして彼は、私に言った。 「内條さん。色々な人のお世話になられたのですね。これからは、貴方が世の中にお返ししていく番ですよ。」  この言葉に私は驚いた。おぼつかない今の私が果たして、人様のお役に立つ事がどうして出来ようか。困惑する私に、彼は笑顔で深く頷きながら、 「出来ますよ。この盲学校に来て、一生懸命勉強すれば、内條さんにも、人のお役に立つ様な事が、いつか出来るようになります。」  目から鱗が落ちる思いだった。それまで、塞ぎ込んでいた私の心に一筋の光が射した気がした。もしかしたら、盲だったのは、目ではなく私の心の方だったのかも知れないと‥。  春まだ浅い日、私は入学式に向かっていた。かつて東京都知事が歩いた同じ通学路を、白杖を使い、再び取り戻した希望を胸に。  そこには、多くの仲間やご学友との出会いが待っていた。合格祝いに沖縄から黒糖が届いた。きっと、あの時分の私は、深い喪失感の中にいたのだろう。視覚障害者になってしまったと思っていたが、今はせっかく視覚障害者になれたと思う様になった。そうでなければ、沖縄の温かい人々や、こんなにたくさんの出会いは、なかったであろう。  盲と光の中で、志を胸に私は、今日も生きていく。