「Grateful(グレイトフル)」 群馬県  小暮(こぐれ) 愛子(あいこ)  5年3組の女子の間で、「うすのろまばかまぬけ」という遊びが流行っています。ルールは簡単で、円の中心に人数より1つ数の少ない消しゴムを置いて、合図と同時に素早く取るという椅子取りゲームのような遊びです。 「うすのろまばかまぬけ!!」 女の子たちが一斉に叫んで、床に置かれた消しゴムにとびつきました。 「誰?」 「ぷぷっ、愛ちゃん!一回目だから「う」だよ!」  みんなの目がおもしろそうに私の顔を覗きます。  再び掛け声がかかり、目の前をたくさんの手が勢いよく交差しました。私が狙っていた一番手前の黄色い消しゴムは誰かに取られてしまったようです。 「やだー!また愛ちゃん!2回目だから「う、す」ね!!」 色とりどりの消しゴムが目の前に置かれては消え、また並べられてなくなって。  そうして、休み時間の20分間に私の負けだけが数を増やし、全ての文字が揃って今日も私が 「う、す、の、ろ、ま、ば、か、ま、ぬ、け」 になりました。  私の名前は愛ちゃんです。別にクラスでいじめられている訳ではありません。ただ、目の見える範囲、視野に欠けている所があって見えにくい部分があったり、素早く物を見つけたりすることができないロービジョン(弱視)なのです。黄色のような明るい色だと見つけやすいので黄色い消しゴムだったら取れるかなと思ったのに、今日もダメでした。  私の目がおかしくなったのはつい最近のことです。これまでメガネをかけたこともなかったし、体育も得意でした。でも、今年の運動会は今までと違いました。クラスの代表が選ばれて走る選手リレーの時のことです。まっすぐ走れず、体が右に左に揺れてしまうのです。トラックにひかれた白線を目で辿りながら下を向いて走っていたら、後ろからきた選手にびゅうっと抜かされてしまいました。 「ああ!」 私のせいでクラスが負けた・・・!  涙がこぼれそうになって慌てて女子トイレに行きました。泣いていたら、みんなに心配をかけるので、声を出さずに泣きました。  私には周りの友達と違うことが他にもあります。昼間、見えている物でも夜になると夜盲(やもう)という症状で足元の段差も近くにいるはずの人も見えなくなってしまいます。紫外線が目に悪いとお医者さんから聞いて、お父さんが茶色いレチネックスのサングラスを買ってきました。地域のお祭りがあって、はっぴを着てお化粧もしたのに、サングラスをかけたらなんかすごく変・・・!周りの人の目が気になって、恥ずかしい!  私は普通の小学五年生です。毎日、うすのろまばかまぬけで負けてもみんなが笑ってくれるなら、それでいいと思っています。  だけど、目が見えなくなって、本当に私、うすのろまばかまぬけになっちゃうのかな?友達には目の病気のこと、恥ずかしくて言えないです。  あれから何十回もの誕生日を迎え、愛ちゃんこと、私は46歳になりました。朗らかな夫、大学生と高校生の二人の優しい子供たち。それから盲導犬コニーと一緒に暮らしています。町内には両親の家があり、付かず離れずの距離で見守ってくれています。友人にも恵まれ、カウンセリングをライフワークにしながら幸せな毎日を送っています。  この幸福に辿り着くには果てしない苦悩の道のりがありました。病気の進行や将来への不安、周りにカミングアウトすることもできなかった。正確にその時々の感情を表現することはもうできないかもしれません。全てが過ぎてしまった記憶であることと、悲痛な記憶にはある種の鍵がかかっていて、思い出そうとしてもぼんやりとしか思い出せないからです。ただ、現在の幸福を構築している基礎の土台になるものはそうしたトラウマにも似た暗い影の部分とそれらと折り合いをつけてきた自分への信頼なのではないか、と思っています。  両親が医師から「網膜色素変性症(もうまくしきそへんせいしょう)」と診断を受けたのは、私が小学校高学年の頃だったそうです。この病気は遺伝性で治療法が未だないこと、このまま進行すると30歳までに失明するだろうとの見立てだったと言います。その時の両親がどんな思いだったか、聞いたことはありません。  暗い想いにつぶされそうになりながらも、娘のためにと最善を尽くしてくれたのだと思います。病気の進行を遅らせる効果のある漢方があると聞けば地方から東京まで一日がかりで通院。待ち時間は毎度、忘れられているのではと不安になるほど長く、それでも母は帰りに小学生の私が好きそうな文房具店やレストランに連れて行ってくれました。家には高齢の祖父母がいて母は普段家を空けることがなかったはずなのですが・・・?大人になって、 「もしかして、私が明るい気持ちで治療を受けられるように楽しい場所に連れて行ってくれたのでは?」 と、気がつきました。  母にそのことを尋ねると、懐かしそうに笑っていました。  当時の私は、と言うと自分ばかりが辛くて、誰も自分のことをわかってくれないと思っていました。せっかく遠くまで行って処方してもらった漢方薬も嫌で飲まないし、紫外線カットのサングラスもかけたがらず、随分と苦労をかけました。本当に親不幸者です。  だけど、どんな時でもお父さんお母さんから愛情をめいっぱい注がれていることだけはわかっていました。  日々、見えにくくなっていく目に悩まされていた25歳の時、太陽みたいに朗らかな男性と出会いました。一緒にいると肩に重く伸し掛かった荷物を半分持ってもらっているような気持ちになりました。幸せな結婚生活を経て妊娠、長女を出産するのと同時期だったでしょうか、残っていたわずかな視力を失ってしまいました。初めてのあかちゃんのお世話と見えない目。何もかもが思うようにいかなくて自分を責めては、その反動でヒステリックに感情が爆発してしまう。周りがどんなに優しくしてくれても心が癒えず、あかちゃんが泣くと一緒に私も泣いていました。  絶望的な状況の唯一の救いは、人間に与えられた順応する力で、見えない世界に立ち尽くしながらも、少しずつ少しずつ時間をかけて本来の自分を取り戻していくことができました。くじけた時は同じ視覚障害を持つ友達が夜遅くまで話を聴いてくれました。自立した生活を送りたいと点字や白杖、盲導犬歩行の訓練を受けたことで、できることも増えて、そこから希望を持てるようにもなりました。小さかった子供たちはいつの間にか私の背を超えて、誰かが困っている時にすっと手を貸せる優しい人間に育ってくれました。  先日、久しぶりに小学生の頃のアルバムを開いたところ、町のお祭りではっぴを着てサングラスをかけている写真が出てきました。一番嫌いだった写真です。横で一緒にアルバムを見ていた両親が、 「これ、おばあちゃんと写っていていい写真だね。」 と、言いました。それを聞いて、私は心底驚かされました。これまでその写真には自分一人しか映っていないと思い込んでいたからです。「おばあちゃんが愛ちゃんの肩をぎゅっと抱いて笑っているよ。」、と母が教えてくれました。今はもう亡くなってしまって会えないおばあちゃん・・・。いつだって一人じゃなかった。  私の好きな言葉に「Grateful」という英語があります。日本語にすると、「感謝に満ちた」という意味です。  「幸せだなぁ。」初夏の緑に香る公園をパートナーのコニーと二人、風を切って歩きながらふと思う。愛する家族、大切な人たちへの感謝で心が満ちています。  そして、目に見えない大切な物をたくさん見せてくれた私の見えない目。この目にも今、ありがとうを伝えたい。全てのことに心からの感謝を込めて。I am grateful.