「ささやかな語りを夢みて」 山梨県  榊原(さかきばら) 佳美子(かみこ)  昨年の4月10日の夜、私は、自宅の2階の最上階から転落した。私は網膜色素変性症という難病で、24歳頃全盲となり40年以上見えない生活を続けてきた。その階段も日常的に使っていたにもかかわらず、右足を一歩前に踏み出したら、そこには何もなかったのだ。かけつけてくれた救急隊員に私は「頸髄損傷だと思います」と伝えた。救急車の中でも意識があり、病院に到着して指輪をはずされたのも覚えている。術後、意識が戻った時には、気管切開が施され声を失っていた。目が見えない上に声も出せず、周囲の方と意思の疎通ができない。それは、私にとって青天の霹靂に思えた。それから、過酷な入院生活が始まった。「生きていてくれてよかったと家族皆が思っている」という妹からの手紙を、若い看護師さんが涙ながらに読んでくれたことを覚えている。その手紙を支えに入院生活に耐えてきた。とにかく水が飲みたいのだが、誤嚥の心配があるため、口の中を潤すことしかできない。その水をもらうことすら、病棟の忙しさの中で「待って」と言われ、耐えなければならないのが苦痛だった。大木に身体を縛り付けられているような感覚に襲われ息もできないくらいになると、死にたいと思う程だった。一般病棟に移ってからさらに過酷になった。看護師さんの人数が足りず、待たされることが多くなったのだ。それでも、せん妄状態に陥った私に対処してくれる看護師の方々のご苦労を思うと、感謝の気持ちで一杯になる。  5月19日にリハビリテーション病院に移ってからは、声で呼ぶことができず、手も動かせないのでナースコールを押すこともできない私に、舌で上顎を鳴らす方法を考えて下さってずいぶん楽になった。それでも、自分の声が元通り出るようになるかとても不安で恐怖を感じていた。7月3日に、カニューレが入り、声が出るようになった時の喜びはどれ程だったか。周りの方々も大変喜んでくれた。今でもスタッフの方々のその声が甦る。  経管栄養の期間も大変苦しかった。3食とも口から食べられるようにしてほしいと涙ながらに訴えたのは8月20日だったと記憶している。  自宅介護になってからも気管切開部からの痰の吸引は必要になるとのことで家族が指導を受けていた。が、救急搬送され気管切開の手術をしてくれた医師への再度の受診を勧められ、気管切開が閉じられることとなった。病院を退院するまでに気管切開が閉じられたのは、最高の喜びだった。  9月28日に退院した。家に帰りケアマネージャーをはじめとして訪問看護師、ヘルパー、リハビリの方々、家族の支援で順調に介護生活が滑り出した。夫も全盲なのだが、毎日マッサージをしてくれた。秋には、息子の車に車椅子を乗せ、山里に行き鳥の声を聞いたり、もみじの絨毯の上を車椅子で押してもらいカサコソという音を聞いた。雪が降った時には、庭の小枝に積もった雪を頬に触れさせてもらった。庭に咲いた鮮やかな黄色い牡丹やピンクのバラやスイートピーの香りを嗅がせてもらったりもした。このまま順調な日々が続くと信じていた。  ところが、4ヶ月後の2月の下旬頃から寒暖差の影響からか、体調を崩すことが多くなった。頚髄損傷から起こる体温調節障害が顕著になったのだ。  自宅介護者のメインは長男であるが、私の多くの要求に答えきれず「自分にはもう無理」と匙を投げるような言葉を言われた時「それなら出ていってくれ」と言ってしまったこともある。それでも息子は、しばらくすると何事もなかったかのように接してくれた。また、ある時、妹に対する私の言葉から妹と激しく言い合ったことがある。後悔している私に息子は「自分がもし母さんの状態になったら、理性を失ってもっと騒ぎ暴れると思う。」また「ケアマネさんは、本人がこの状態を受け入れるのに2年や3年かかると言っていた。」と私を庇ってくれた。こんなにも私を想ってくれる息子がいる。  私は「ききみみずきんおはなしの会」に属し、35年以上もの間ボランティア活動を続けてきた。この会は、日本や世界の昔話、創作のお話を暗記し、子どもたちの前で聞いてもらうというものだ。「目が見えなくても覚えて語るのだからできるんじゃない。」と長男の同級生の母親から誘われたのだ。この会に入ったことで、私の世界はどんなに広がったか計り知れない。全国の語り手たちとの出会い、たくさんの数えきれないお話との出会いによって、私自身がどんなに心豊かな生活ができただろう。今回の事故でそれを続けていくことは不可能になったのだが、その仲間たちが今も自宅を訪ねてくれる。新しく覚えたお話を語ってくれたり、児童文学はもちろんのこと、こどもたちに実際に関わっている方々が書かれた本などを読んでくれたりする。昔からの視覚障がい者の仲間や私の二人の息子の同級生のお母さんたちも時々お喋りに来てくれる。  こんなにも私を想ってくれる息子や多くの仲間たちに恵まれている私は何と幸せ者だろう。なのに、体調を崩すと冷静さを失い、自制心を失くすことがたびたびあった。その度に自分の発した言葉を反省し後悔するが、同じことを繰り返してしまう。  私は3月からこの7月の退院までに3回の入院をした。この間、多くの看護師や介護士の方々にお世話になる中で、いろいろな思いをし、自分を見つめる機会になったと感じている。今、自宅での介護生活に戻り、残された命をどう全うできるか考えている。家族や助けてくれる妹との関係をどう作っていくか、自分自身の目標をどこにおくか。いつの日か、私の孫や甥や姪の子どもたちに私がこれまで語ってきたおはなし≠聞いてもらえる機会が作れたらどんなにうれしいだろう。宿命は定められていると聞く。それは受け入れるしかないが、どう生きるかは私自身が決めていくことなのだと思う。これからも思いもよらない出来事が降りかかって来るにちがいない。私を想ってくれる多くの方々と共に乗り越えていきたいと思う。