「友達」 福井県  横山(よこやま) 博一(ひろかず)  昭和19年(1944年)住み慣れた大阪の地を後に、父が生まれ育った当時石川県河北郡三谷村字いのき戸数25軒の山の中の村だった。  大阪の三間しかない小さな家とは違い、板張りながら莚がひきつめた大きな部屋があって、80歳をいくつか超えた祖父母が私達をむかい入れてくれた。  家の周りの田畑をわずかに耕す程度で時々金沢にいる父のすぐ下の弟つねじろうが手伝ってくれていたようだ。  昭和19年9月9日は大阪での夜は梅田駅前の広場で一番列車に乗る人たちでいっぱいだった。  一番列車4人掛けに5人が座ることができた。父は私の手を引き、母は弟に手びかれ、8歳年上の兄はすばやい行動で席を確保したのだった。  母は2歳年下の弟を出産して半年後、白そこひ(緑内障)で完全に視力を失ったとか。  当時、北陸線は単線で前原で30分、敦賀で30分、上りの列車との待ち時間があり、全員がホームへ下り立ち、水で顔を洗ったり水筒に冷たい水を汲み入れたりした。  金沢から2つ目の森本へ着くのに9時間もようした。  森本で下りると30分余りバスに乗り、終点古屋谷で降りた。私は思わずその辺を撫でまわした。靴の裏底にごつごつと違和感を感じたからだった。父は「ひろ、それは砂利とゆうもんじゃ」大阪にはこんな道はなかった。  終点から5km歩いて祖父母の家に着いた。今まで住んでいた三間しかない小さな家と異なり部屋数が7、8つあって、すべて板敷で莚がひきつめられていた。  ふしぎの国のアリスのような暮らしが始まった。  戸数25軒の小さな村には村人の倍を超える人が、掘っ建て小屋や同居人で村人の食料もあまりなかった。  子どもたちは野山を駆け巡っていたが私や弟を誘うものはなかった。 「めくらがうつる、だからあいつらの家へも行くな、めくらがうつる」  昭和20年(1945)4月から弟は小学校へ通い始めたが、私に「来い」との案内状がなかった。  昭和25年(1950年)3月に盲学校から女の先生と役場の人が家に来て「4月から盲学校へ来なさい。大勢の友達がいて、遠足だの運動会や学芸会などとっても楽しいよ」と言葉巧みに私を誘った。父は不安げに「この子は親元を離れて暮らしたことがないからな」とつぶやいた。  昭和25年の4月初め、父と10歳年上の姉にともなわれ、12kmの山道を父は夜具と机を、姉は柳行李をかついでいくつもの峠を越えて学校にたどり着いた。父は荷物を置くと「頑張れや」と一言を残し、今来た道を戻って行った。  姉は父の10人兄弟の末の弟が電気関係を学校の近所でしていたのでそこで泊めてもらい、明日帰るが時間がないのでここへは寄らないで帰ると言っていた。  学校と寄宿舎は1本の廊下で繋がり、一部屋には6、7人がいた。学年も年齢もバラバラで全盲と半盲(弱視)とのバランスが考えてあったようだ。  年齢は、下は7つから上は60に近い傷痍軍人がいた。女では赤線が廃止になるとかで「あん摩」を取得しようと学校へ通っていた。  学校では点字を教わり、初めて国語の「4人のいいこ」を読めた時の感動は今なお五体の隅々に残っている。  最初の夏休みが終わって教室に入ったが、私の机がない。1年の担任と3年の担任が来て「飛び級と言って、今日から3年生でもっともっと勉強しなさい。そうすればどんどん上に行けるからね」と言った。新しいクラスには生涯の友となるSくんがいた。  Sくんは私より2つ年上だが、なんとなく弟のような甘え癖があった。  2学期の最初の夜。盲学校金沢商業高校(金商)との境の高さ2mほどの肝木や背の高い草むらでがちゃがちゃと虫が鳴きはじめ、Sくんは「あれがクツワムシや。捕まえに来い」と誘ってくれた。  草むらに近づくとSくんは「音を立てるな、息をするな」といって、30分余りたった時「捕まえたぞ」と5、6m離れたところで声がしてにぎやかに鳴いていたクツワムシの声も一斉にとだえた。  彼は手づかみでクツワムシや蝉をよくとらえた。  私の育った山の村にもいろんな虫はいたが、クツワムシはいなかった。  Sくんの得意はまだあった。ジャズが好きで原語でよく歌っていたが、英語はいつも追試験を受けていた。  試験前になると、姉が学校の近所の6畳一間に姪と暮らしていたので、布団を2枚並べて姉と姪、Sくんと私二人が一つ布団で寝て、姉の手料理で腹一杯、飯を食った。  彼との付き合いは今年の2月まで続いた。  彼は88歳で旅立った。父母が旅立っても涙をこぼさなかったが、彼の旅立ちは涙で潤んだ。  今一人忘れられない友達がいる。  彼をKと呼ぶことにする。私が高校の頃25歳で1年生に入って来た。両親がいないのか高齢なのか兄嫁に手引かれて彼が布団と大工道具をかつぎ、兄嫁は三味線をさげて私らの5号室へ入って来た。「Kくん、机や衣装箱は」と聞けば「一日あれば作れます」と言った。  学校のごく近所に材木を取り扱う製材所があって、私が授業を終えて寄宿舎に帰ると彼は廊下の隅で板にカンナをかけていた。周りに2、3人の寮母さんと舎監長が、何やら話ながらKくんの手早く夕方までには机が出来上がった。あとは明日ニスをかけるだけだと言い、その夜はみんなでその机を撫でまわした。  ある日学校から帰ると彼は三味線を弾きながら「越中じょんがら節」や「こきりこ節」を高らかに歌っていた。  あの日の素晴らしい三味の音と「じゃんとこい、じゃんとこい」の越中麦屋節がいまだに耳の底に残っている。  また彼は村の新聞配達もしていたというので、新聞にも色々あって、よく間違えもせずに配れるものやと言えば「新聞社によって、手触りが違う」というので石川・富山の地方紙を4部集めて紙の種類、手触りの違いを初めて知った。  私も雪深い山の村で育ったが、彼の住む五箇山は、もっと雪深い所であったろうと思われる。  ある年の3学期、始まって寄宿舎に帰ってみると、Kくんの手作り机と押し入れも空っぽで、寮母さんにKくんは部屋替えかと聞けば「彼は亡くなった」という。  12月の下旬、寒い朝に激しく咳き込み、激しい喀血で亡くなったとの兄嫁の話だった。  あと10年生きていればマイシンやパスも容易に手に入ったであろうし、今のようにマスコミやテレビ・ラジオの盛んな時、Kくんは茶の間の人気者だったろうと悔やまれてならない。  友達にも色々いるが、どの人もいつか忘れられない人となった。  父の故郷、戸数25軒の小さな村で「めくら移るから向こうへ行け」「親子めくら」と叩かれたり倒されたりもしたがやがて「悪かったな。あの時のこと許してくれよ。堪忍な」と詫びた村のガキ大将は毎年、山栗や自然薯を送ってくれるし、墓参りに行けば色々と世話をしてくれる。  令和5年(2023年)5月18日で86歳になったが、時折電話をかけて御国訛りにタイムスリップすることがある。  友達とじゃれあった河原、ヤマドリの雛を分け合った岩陰。  友達と喧嘩をしたり、木(こ)の実を分け合ったあの頃、大半は旅立ち、お盆に墓参りに行くより、スイカを食べながら友と語るのが楽しみだ。  ヒグラシにせかされて家路へ急ぐ。