「タンデムが空を飛ぶ」 新潟県  藤田(ふじた) 芳雄(よしお)  黒のサイクリングパンツと黒い皮の手袋、それに赤いヘルメットをかぶって、まっ赤なタンデムにまたがると、「それじゃ…セーノ!」。2人乗り自転車では最もバランスを崩しやすい、緊張するスタートの瞬間だ。2人のタイミングがピッタリ合うと、タンデムはまるで飛行機が空に向かって滑走路を飛び立つようにスムーズに走り出す。 まずは順調な滑り出しだ。車の往来の激しい市道を横断し、地元の中学校の校門の前を右に曲がり、東に向って市道をまっすぐ5分あまりも走って陸上競技場の脇の坂を上ると、川幅1km余りの広大な信濃川堤防に出る。夏の昼下がり、気温は既に30度を上回り、近くの雑木林からはせみ時雨が降るように聞こえてくる。ここで三尺玉やフェニックス・スターマインが次々に打ち上げられる長岡まつりも、もうまもなくだ。 「ギヤ・チェンジ!」、タンデムの前のサドルに座ったパイロット(操縦者)のK君から、後ろのサドルに座ったストーカーの私に声が飛ぶ。「チェンジ・OK!」。私は大きく声を返すと同時に、それまで力をこめて踏んでいたペダルからとっさに力を抜く。カチ、カチ。それまでトップだった10段変速のギヤが落ちる。それでまもなく信濃川に架かる橋のアンダーパスが近いことを知る。いったん下ってから次にくる上り坂のための前もっての準備だ。「下ります!」タンデムは街のまん中を走る大手大橋の下に向って坂道を一気に下る。わずかの間のスピードとスリルを味わう。「ハイ!上りです。」と声がかかると再びペダルに力をこめる。坂を上りきると向かい風が急に強くなる。ボーボーと強い風の音が耳をふさいで、K君の声が聞き取りにくい。耳をすますと河川敷の雑木林からはヒバリの声が聞こえ、ジョギングを楽しむ人の足音も聞こえる。「あっ何だアレ!?」と、私たちのタンデム自転車を見つけた、学校帰りの子供たちの興奮した叫び声が聞こえる。実に愉快、愉快! パイロットのK君は私が以前勤めていた電話会社の後輩だ。定年で3年前に退社し、登山や旅行を楽しんでいる。在職当時、私の伴走者として一緒にホノルルマラソンでフルを走ったこともあり、数年前、佐渡ロングライドというツーリングのイベントで40kmを走ったこともある。今では週に1度、私のタンデムサイクリングに付き合ってくれている。  「ここらで一休みしましょう!」、大きな木を見つけて木陰で自転車のフレームに取り付けた金具から水筒を取り外し、もうかなりぬるくなってしまったお茶を口に流し込む。急に汗が噴き出してきて、汗を拭き拭き、昔のことを思い出す。  私が初めて自転車で遠出をしたのは高校2年生の夏休みのこと。いとこと高校の同級生の3人で、長岡のわが家から東京の小金井市まで走った事がある。家にあった母親のママチャリで、テントや食料の準備をするでもなく、まるで隣町まで用を足しに出かけるかのような気軽な格好で出かけた。母には内緒で、「すぐに帰るから…」と言って出掛けた。目的地まではおよそ200km以上はあっただろうか。柏崎を通り、妙高高原、そして長野を抜ける当時の国道8号線は、国道とは言っても、その半分ほどはまだ未舗装で、車の走った後の埃と日焼けでまっ黒になりながらのサイクリングだった。お寺に泊めてもらい、駐車場にとめてあったダンプの荷台で寝泊まりした。冒険というより無茶苦茶な旅だった。  その後、私は20代のはじめで医師から眼病を言い渡され、将来の失明を宣告された。私は失意の中で自分を責め、自分の運命を恨んだ。死ぬことさえも怖くない気がした。 こうして何をするでもなく、数年が過ぎた頃、私は再び自転車に乗ることを思い立った。「今ならまだ間に合う。今ならまだ行ける。」少しずつ視野が狭くなり、徐々に夜盲も進む中で、北海道1周のツーリングを決めた。今からちょうど50年前、24歳の時だった。「今を大切にしよう。今、できることをあきらめない。」。私は念入りに地図を調べ、道路状況を頭に入れ一日の走行を80km前後と決め、宿泊地をしっかり決めて20キロほどの荷物を自転車に取り付けて出かけた。それは紛れもなく高校生の時のそれとはまるで正反対の旅となった。新潟の家を出て日本海に沿って北上し、津軽海峡を青函連絡船で渡った。中山峠から札幌に入り、知床まで行って北海道の南半分を一人で走る2000kmあまり、27日間の旅だった。道路際の白線をたどり、夕方は早めにテントを張って寝た。  こうして一人で道内のまっすぐな道を走り、網走を過ぎた頃に、同じく単独でツーリングをしていた、卒業を間近に控えた、ある大学生と知り合い、三日間ほど一緒に走った。共に温泉につかって汗を流し、阿寒湖の畔にテントを張って缶ビールを傾けながら人生を語った。それは私にとって生きる勇気を与え、自分を見つめなおす、かけがえのない時間となった。  無事、北海道の旅を終え、帰宅して暫くした頃に、私は彼に手紙を書いた。心の奥を伝え、生きる勇気をくれた彼への感謝の手紙だった。しかし、彼からの返信は無かった。代わりに私の手許に届いたのは彼の母親からの手紙だった。そこには彼の訃報を知らせる文字がつづられていた。「北海道から帰った直後に、彼は自ら命を絶ちました」。その時の私は、「なぜ?」という思いで頭の中が真っ白になった。 そしてあらためて死ぬことの意味、生きることの意義を自分自身に問い直した。  その後、視力の低下が進んだ私は、もう既にひとつの意志を持って新潟盲学校の門をくぐった。そこで東洋医学を学び、あらためてマラソンにもチャレンジした。そして長岡市内に平和の森公園を建設する運動を呼びかけるまでになった。 こうした一連の出来事が私に運命を切り開く勇気を与えた。  そして数年後、「タンデムは障害をもつ者にとっての大切な移動手段」として、私はタンデム解禁運動を本気で始めるようになった。 自転車の2人乗りは、それまで道路交通法に基づいて各都道府県の公安委員会の定める条例で禁止されてきた。もちろん新潟も例外ではない。  私は市の福祉イベントや視覚障害者マラソン大会での体験乗車会を開き、県の視覚障害者福祉団体などにも呼びかけた。こうして県議会が動き、新潟県は2014年、全国で8番目のタンデム解禁の県となった。 今年7月、最後に残った東京都でも公安条例が改正され、全国どこでもタンデムが公道を走れるようになった。  「ソロッと出かけるとするか。」。K君が差し出した黒糖の飴をなめ、水筒のお茶を飲み干した頃には、もうすっかり汗も引き、川風が素肌に心地よい。再び愛車にまたがると「セーノ!」というかけ声で、また前と後ろのペダルが同時に動き出す。 来た道を引き返すと、帰りは逆に追い風が私たちのサイクリングを後押ししてくれる。まるで二人で空の彼方へ飛んでゆくような、心地よいひと時だ。ふり返れば長い長い、人生のツーリングだった。もう2度と乗る事は無いと思っていた自転車に今、再び乗り、風を切って走ることのできる喜び…その風が目に沁みたのか、走りながら思わず涙が一筋、頬をつたって、勢いよく後ろに流れた。