「乗馬記」 群馬県  小暮 愛子  「馬に乗ってみたい」と思ったきっかけは馬の匂いが好きだからです。よく手入れされた馬は干し草のとても良い匂いをしています。週に一度、伴走者と一緒に利根川沿いのサイクリングロードをランニングしていると、上毛大橋をくぐってすぐのところに厩舎があって、そこから馬の優しい匂いと「ヒーン、ブルブルブルウ」という鳴き声が聞こえます。2年ほど馬たちを感じながら通りすぎる日々を過ごしましたが、直接馬に触れてみたくてその厩舎を所有している、A乗馬クラブの門を叩きました。ついに、今年3月、引馬で馬に載せてもらって馬場を一周する「体験乗馬」をすることができました。馬の名前はニュアージュと言う若くて白い馬で、背丈がとても高く、インストラクターの方の声が遥か下の方から聞こえてきます。新緑に包まれた自然豊かな場所、鶯の鳴き声を聴きながら馬に揺られる体験は他のどの経験とも違って格別なものでした。馬の体は大きくて温かく、体の揺れを通じて馬の動きが直接自分の身体に伝わってきます。  今から17年前、網膜色素変性症で全盲になった私には、「目が見えるようになったらやってみたい」ということが数えきれないほどたくさんあります。乗馬もまたそうした「いつかやりたいことコレクション」の一つでした。でも、そうやって目が見えるようになる日を待っていたら人生が終わってしまうのではないか?そんな思いに至ったのです。そうして、乗馬クラブの代表に視覚障碍者でも乗馬レッスンを受けることができるか、どんなことができそうかを一緒に考えていただき、マンツーマンレッスンで柵の中でならレッスンができるのではと言うことになりました。A乗馬クラブは競技特に障害(障害物を飛び越える)に力を入れていて、広い馬場を人馬一体となって走る「パカラ、パカラ!」という音と指導者の声が響き渡ります。とても自分のような者がいるべき場所ではないと思いつつも馬たちと触れ合いたい、また馬に乗りたいという気持ちに押されて5回の体験コースに申し込むことにしました。私のパートナーになったのは、アテネというおばあちゃんで、大人しい、けれど経験豊かな馬です。最初のレッスンは、操作法「停止」「発進」「左右方向の指示」などを習いました。かかとの内側を使って馬に指示を出しながら手綱を操り、騎乗姿勢も正して、とやることがいっぱいありすぎて家に帰ってからすぐパソコンを立ち上げて乗馬日記を書き始めました。記録を残すためと弾んだ気持ちを忘れないために。「「鐙」は足の裏の一番幅が広いところで踏み、かかとを下げること」「馬は力でなくバランスで乗ること」馬の感情表現の仕方や馬の好物など、教えてもらうこと全てが新鮮です。  4月も中旬に入った頃、「軽速歩」のレッスンが始まりました。軽速歩とは、速歩の時に馬の上で立ったり座ったりを「1、2、1、2」のリズムで繰り返す動作のことです。手綱と一緒に鞍についているサドルホルダー(安全ベルト)を持って、馬の動きに合わせてリズムを作ることで、大きな振動を逃していきます。アテネが地面を蹴った瞬間に立ち上がるとそのままポーンと空へ体が飛んでいってしまいそうです。馬を感じ、心を一緒にした時、ふとアテネが見ている景色を自分も見ているような錯覚を覚えました。 「アテネ、すごい!すごいよ!!」 レッスンが終わってから好物のりんごをあげました。食いしん坊のアテネは右前脚で地面を蹴って「もっとちょうだい!」と言う仕草をしていて、その動作の意味がわかると余計に可愛く思えました。  5回のレッスンが終わって本来なら乗馬クラブに入会するか否かの意思表示をしなくてはならない時期がやってきましたが、決断ができませんでした。なぜなら、乗馬レッスンは楽しいけれど今後、レッスンのレベルが上がった時についていける自信がなかったからです。そんな私の様子を見て、クラブの代表が体験コースをもう1クール延長してくれることになりました。視覚にハンディを持つ生徒は初めてだそうで、スタッフやインストラクターの方々がとても丁寧に関わってくれ、感謝の気持ちが溢れました。短い梅雨が明けると、馬たちの毛は夏の薄い毛に変わり直接肌に触れているようなさらりとした触り心地になります。いつものように鞍にまたがって手綱を引こうとするとその日のパートナー、リランが急に頭を強く振って暴れ出しました。しきりに体を動かし、後ろ脚を蹴りあげる動作をしています。 「うわあ!!」 状況の把握ができないまま、馬が勝手に動いてしまうのでとにかく驚いて声をあげてしまいました。すると、インストラクターが夏になると「サシバエ」と言ってその名の通り馬の血を吸うハエがよってきて、馬がそのハエを嫌がり体を使って追い払おうとしていると教えてくれました。サシバエの他にも夏の熱さが馬たちの体力を消耗させ、アグレッシブになる馬も。予想外の馬の動きに素早く対処することができず、次第に落馬の恐怖が頭から離れなくなっていきました。乗馬日記も書けなくなっていたある日、クラブの裏手にある利根川河川敷に外乗に行けることになりました。レッスンの時よりも馬の足取りは明らかに軽く、立ち止まってお気に入りの草をむしゃむしゃ食べ始めました。木陰に吹く風はひんやり爽やかで晴れ晴れした気持ちが心を満たしてくれました。可愛い馬との触れあい、豊かな自然、愛深い乗馬クラブの方々、ここには私の宝物が揃っている・・・。  迷いに迷い、勇気を出し、やっと今月、A乗馬クラブに入会しました。先のことは考えず、一回一回のレッスンを安全に楽しもう!そう心に決めました。正式にクラブメンバーになると乗馬レッスンを受ける前に馬の手入れや馬具の準備と言った「馬装」という作業が必要となります。まず最初に馬具をつける練習からスタート。馬の背にゲルパッド、ゼッケンを重ねその上に鞍を載せていきます。私は身長155センチなので馬の背に重たい鞍を載せるには両手をめいっぱい伸ばして掲げる必要があります。鞍の位置が真っ直ぐかを確認したら、今度は馬の腹に腹帯を締めていきます。次に馬が足を傷つけないようにプロテクターを装着。上下左右の向きを間違えないように自分の足につけて理解をしてから馬に装着します。そして、一番難しいのが頭絡です。右手で額革、項革をつかみ、左手の手のひらにハミをのせ、右手で馬の頭が逃げないように押さえながら、同時に左手でハミを口にくわえさせます。馬に咬まれないかひやひやしながら何とか頭絡をはめ込むことができました。馬具の装着方法に続き、今度は馬の手入れについて学びます。体の汚れやほこりをブラシで払い、タオルで拭いていきます。脚の裏の蹄を洗う作業は、馬がなかなか足を上げてくれないので、自分の肩を使って馬の脚を押し上げておきつつ、膝の間に挟んだホースの水とタワシで足裏を素早く洗います。私が1時間もかけてもたもた馬装をしているうちにおばあちゃんのアテネは立ったまま居眠りを始めてしまいました。汗びっしょり、靴はぐっしょり。でもこんな風にうまのお世話までさせてもらえるとは夢にも思わず、叫び出したいような達成感です。  今、この瞬間こそが何より大切で私の乗馬記は一枚一枚ページを増やしていけば良いのだと思っています。あせらず恐れず、馬との信頼関係を深め経験を積み重ねていきたいと思います。