「思い出と私の人生」 長崎県  齊藤 美雪  小学校入学前に母に連れられて行った眼科で視力検査をした時に読めたのは、一番上の大きな輪と、文字の上から二番目くらいだった。「見えるか、読めるか」と、看護師がだんだんと不機嫌になってきて、ぽつんと一人立たされた私は叱られるような気持ちだった。「幼いから、きちんと視力が測れないが、眼鏡をかけた方がいいだろう」と医師に告げられている母の背中も叱られているように見えて、居心地が悪かったのをよく憶えている。自分の眼が他と違うのだと知ったのはこの時だ。  眼鏡をかけたのは、小学3年になってからだが、「メガネザル」と囃されたり、どうしてもそれが必要という材料をみつけられずに使わず仕舞いになった。眼鏡があったら…と、家の机の引き出しにしまい込んでいたのを思い出したのは6年生になって、一番後ろの席になった時だ。先生に指されて、黒板に書かれた漢字が読めなかった。黙っている私に、その先生は「なんだ読めないのか」と言ったかどうだったか、さっさと他の子に読ませた。次の女子が読むのを聞きながら悔しくてたまらなかったけれど、36名の前で見えないのだと言いたくはなかった。  小・中学と普通校に通った中で、先生もいろいろで、見え難いことから起こった苦い出来事が無いこともないが、さり気ない気遣いで、ともすれば畏縮しそうな私を引き上げてくれた先生たちの思い出の前には、ただ、ついでに思い出したというだけのことだ。  小学2年生のある日、私は担任のN先生から呼ばれた。先生が手招きしながら立っているのは、いつも黒板の下に下げられていて、月ごとにめくられて、きれいな花や可愛い動物などのいろいろに変わる大きな絵の前だ。私は、よくその絵の真ん前にしゃがんで眺めている。一番好きなのは、金網ごしに真っ白なうさぎがこちらにしっぽを向けて、赤い人参を食べている絵だ。先生がしゃがんで、私もしゃがんだ。壁から外して、床に置いて、先生が見せてくれたのは…、うさぎだ! 「Mさんは絵ば描くとは好きやろ?こがんとば画用紙に写しきるね?」 「学校の外に出て、みんなで絵を描きましょう」という日の朝だった。 先生の言葉が終わらないうちに胸の奥から嬉しさがこみ上げてきて、口で何か言ったかどうか…、とにかく全身でそれを表したことを思い出す。みんなが外に出かける時、自分一人だけが残ったのに、教室の前の床に手を突いて座り込んで、私はどこから書き始めようかと、勉強の時のようにその絵を真剣に見ていた。  描いた絵は、お手本の絵にそっくりで、自分の家に飼っている野うさぎを思い出しながら描いたから、自分の目には本当に生きている兎を描いたもののように見えて嬉しかった。N先生や校長先生に絶讃され、家に帰って自慢すれば、両親がいっぱいに喜んでくれて、自分が特別になったような気がした。 『そうか…あの時の先生は私が見え難いことを慮ってのことだったんだな』と気づいたのは大人になってからのことだが、あの日初めて覚えた達成感は、それから小さな自信や勇気を生んでくれたように思う。  中学3年の4月、担任は赴任して来たばかりの国語のM先生だ。小学校から国語はすきで、俳句や短歌などに興味を持ち始めた頃だった。 「Mさんは百人一首を知っとるやろ」「はい、何となく興味があります」「かるたクラブを作るよ。Mさんに部長をしてもらうけんね。友達も誘って、それからこれ、明日みんなが集まったら配ってね」と一方的にプリント用紙を手渡された。放課後の職員室だ。私は部長なんてとてもできないと懸命に訴えたけれど、「ただプリントを配る係のようなものだから大丈夫だよ」と言うM先生の明るい笑い声に丸め込まれたように引き受けてしまった。かるたクラブという言葉に強く魅かれ、それだけに「かるたの文字が見えるだろうか、文字の大きさはどのくらいかしら」と、不安と焦りが湧いてくる。それでいてもう一人の私が新しいことに挑戦することへの期待感を膨らませて、プリントを手に、見え難い部分を補う手立てを早ばやと考えていた。もらったプリントには、10首ほどの和歌が解説と一緒に上の句と下の句に分けて憶え易くして印刷してあった。私はその晩のうちにそれを全部憶えた。その後もM先生は必ず「明日みんなが集まったら配ってね」と言ってプリントを手渡し、私はそれを憶え、翌日札を並べる時には1枚1枚念を込めるようにして並べた。そうやって、ほとんど文字を見なくても素早く取ることができるようになった。お陰で『部長らしい』とまでいかなくとも自分らしい気持ちでいられたのだ。特別なことではなかったのかもしれないが、私は密かに先生に感謝しながらクラブ活動に励んだ。  盲学校の高等部に入学した私は、何か殻を脱いだように延び延びと、奔放なくらいに学校生活を楽しんだ。14名のクラスメイトともすぐになじみ、どの教科の先生も優しく、授業も分かり易く、不得意な数学までもが面白いくらいに頭に入った。『見えないかもしれない、見えなかったらどうしよう』と恐れる気持ちは何処かへいってしまった。  視界が眩しく、白いもやがかかったように見え始めたのは高等部3年に進級した頃で、手術に継ぐ手術と繰り返すうちに、拡大鏡、マジック、毛筆まで使っても文字を書くことができなくなった。見えなくなったからと言って、盲学校にいて泣き言は言えないと思っていたけれども、点字はかろうじて触読できる程度でしかなく、専攻科入学受験が近づくにつれ、14人の仲間から落こぼれるかもしれないという不安は、現実のことのように思えてきて、惨めな気持ちに押しつぶされそうだった。  受験は、点字に合わせて録音と対面での出題、解答も点字と録音、口答など、教科担任それぞれが工夫し、対応してくださった。入試の前日に、「テストの結果だけで決めるものじゃないのよ。1・2年の時の成績はちゃんと評価されるし、貴方の普段の頑張りが一番の評価になるのだから、できることをできるだけ頑張って」と言ってくれた数学の先生の声ははっきり憶えている。本当にあの時、あの言葉にどれだけ救われただろう。振り返れば、中学部や専攻科の先生まで、こんなに一人の生徒を見ているものかと思う程に私に声をかけ、肩を叩いて励ましてくださっていた。  専攻科には入った。さあ、これからどうする。私は「見えなくなっても颯爽と歩いてかっこいいね」と言われるようになってやると決めた。そして、真新しい白杖を手に、前から逃げても逃げても声をかけてくださっていたK先生に改めて歩行訓練をお願いした。  訓練の最初の日、先生はおっしゃった。「目の前の怖いと思う壁は、きっと新しい感覚に変わるよ」と。白杖を持った腕を真っ直ぐに伸ばして、20Mくらいの距離を何度も往復していたある日、はっと体に何か気配を感じて立ち止まった。白杖を向けると、私の真横に電柱が立っていて、それをカチンと叩いた。それから数M歩いていると、何かがふっと消えた気がして杖で探ると、そこは石垣が終わった処だった。距離をおいて辛抱強く見守っていた先生が、「やったあ!」と駆け寄って来て、肩を抱くようにしておっしゃった。 「Mさん、もう一人で何処までも歩けるよ」  いつしか私は、まるで自分一人で立ち上がったかのように闊歩していた。「卒業」が聞こえ始めた頃、当時の自分にはとても不釣り合いだったけれども、「答辞を読ませてもらいたい」と申し出た。ふとした時々に先生方の笑顔や声が思い出されて、6年間の感謝と、社会に出ていく気概とをお伝えしなくてはすまないと、本気で思ったのだった。  今日までの掛け替えの無い出会いの日々も、この先もずっと心豊かに生きていけると思えるのも、私の人生にこんな思い出があるからこそなのだと、近頃つくづく感じている。