「道しるべ」 長崎県  深潟 睦  「世界中の人が知っているような先哲ではなく、今日は私が知る先哲のお話をしたいと思います」先哲感謝祭で講話を、そう言われて、私は壇上に立っていた。  盲学校で教鞭をとるようになって20年余になる。私が勤務する盲学校には、「先哲感謝祭」という行事がある。視覚障害者の福祉や教育、鍼灸マッサージのために偉業をなした先哲に感謝するというもの。職員からも代表が先哲についての講話を毎年行っている。  昨年のこと、私が講話をすることになった。さて、何を話すか。ヘレン・ケラー?ルイ・ブライユ?いやいや、世界的に有名な先哲については、10分足らずの私のつたない話なんかよりもっと立派にまとめられた講話や文章に出会う機会が多々あることであろう。私には、感謝してもし尽くせない、私の人生にとって大変偉大な先哲がいる。世界的に有名な…、というわけではないからこそ、私がかかわった生徒たちにはしっかり伝えたい。この場をお借りすることで、偉大な恩師への感謝の気持ちに代えたい。  生まれつき弱視だった私は、小学校、中学校と、盲学校ではなく地域の学校へ通った。当時は、盲学校から地域の弱視の子供がいる学校へ専門の先生が出向いていって相談に応じたり、補助具の使用について助言したりといった、今では当たり前のように行われている「教育相談」のシステムも確立されてはいなかった。家族を通じて知り合った盲学校の先生が、平日の勤務が終わってからの時間や、休日に、私が通っていた学校や家庭に出向いて来てくださって、補助具の使い方等、熱心に教えてくださった。  単眼鏡で黒板を見るための練習、ルーペで文章を読み、書写をし、できるだけ早く読み書きできるようにするための練習は、幼い子供にとっては決して楽しいことばかりではなかったが、先生は時には厳しく、時には優しく、そして根気強く、いつもかかわってくださった。中学校卒業するまでの9年間、地域の学校で自信を持って学習に取り組めたことは、この先生との出会いがあったからに他ならないと、かけがえのない出会いに本当に今は感謝の気持ちでいっぱいである。  先生への感謝は、私が義務教育を無事終えられたことに対してだけではない。高校から私は盲学校へ通った。専攻科理療科、理療科教員養成施設を卒業して、盲学校教員として母校に赴任することが決まった時、私は先生に、「おかげさまで、夢がかなって、盲学校で先生になることができました」と感謝を伝えた。「よかったね、どんな先生になりたい?」との問いかけに、「弱視で地域の学校に通った経験を生かし、視覚障害の生徒たちの気持ちがわかってあげられるような先生を目指したいです」と、答えていた。この時、先生からいただいた助言が、私のその後の教員人生に大きな影響を与えることになる。  「あなたには経験があるからできる、今までの困った経験、努力した経験をしっかり生かして、生徒たちのために頑張ってほしい、僕たちは、目が不自由になった経験がない、目が不自由な人の気持ちがわからない、だから、どうしたと思う?」私は、このすごい先生のことだから、「視覚障害の…」と名のつくようなタイトルの本をたくさん読まれ、勉強されたのだろう、くらいに考えていた。そうではなかった。先生は、視覚障害の人の気持ちを少しでもわかろうと、アイマスクで目隠しをし、食事をし、歩いて家まで帰った。「あの人、何しているの?」、「変わり者だ」と、周囲では見ている人もいたという。しかし、その先生にとって、周囲のそのような視線など大した問題ではない。その先生を貫いていた信念は、「盲学校であろうが、どこで学んでいようが、視覚障害の人は皆同じ、同じように支援の手を差し伸べ、どこで学んでいる視覚障害の子供たちも同じようにしっかり社会で生きていってほしい」という熱い、強いものだった。  目標をしっかり持っている人は、ちょっとやそっとのことでは揺るがない、この時、盲学校の教員として歩んでいく私にとって、単眼鏡やルーペの使い方以上に大切なことを学んだ気がした。それからというもの、何かに取りつかれたように、私は視覚障害教育分野の自立活動の教員免許取得目指し、ひたすら勉強をした。  今、私は、盲学校専攻科で、鍼灸師、按摩マッサージ指圧師資格取得を目指し学んでいる生徒たちに教える傍ら、盲学校自立活動教員として、時には小学校低学年児童のルーペの導入の指導、点字導入の指導、中学生のルーペを使用して読み速度を上げる指導、高校生の視覚補助具や情報機器を活用した学習の指導などに当たることもある。そして、教育相談として、地域で学んでいる小学生、中学生、高校生にも対応している。私が自分の経験を発信することで、彼らが何かしら目標を見つけ、人知れず努力を続け、卒業後進路希望がかなった時に笑顔で報告に来てくれたときには、何にも代えられない喜びを感じる。  今は全国的に、盲学校職員が専門的立場を生かして地域の学校で学ぶ視覚障害児童生徒のために教育相談に取り組むことはごく普通のことになっている。時間外や休日を返上しなくても、勤務として、出張で地域の学校にも出向いて行ける。盲学校に転任してこられたばかりの先生には、新転任者研修の一環として、アイマスク歩行体験をするのもごくごく当たり前のことになっている。「そんなことまでしなくていい」、「変わり者」などとはやし立てる人は誰もいない。誰もが当たり前と認める中、充実した日々を過ごし、生き生きと今日も仕事に励んでいる。  私は先哲感謝祭で、生徒たちにメッセージを発信した。「当たり前でなかったことが当たり前になるまでに、並大抵でない苦労と努力を重ねた多くの先人たちがいることを忘れてはならない。今は他界された先生の遺志を受け継ぎ、盲学校教員として、盲学校だけでなく広く地域の視覚障害の人たちのためにしっかり歩み続けていきます、とこの場で言えれば何よりの恩返しになるのですが、そんな立派なことを言う自信は今の私にもありません。それほどに、先生は偉大なんです。」  今を、そしてこれからを生きていく盲学校の生徒たちに、発信できてよかった。何かしらの道しるべとなり、ふと思い出して歩くきっかけになった、と、私の話したことを振り返ってくれる生徒がこれから1人でも現れてくれればと願う。  歴史は繰り返し、つがれていく。今の文明社会も長年の歴史の上に築かれたものだ。その歴史上の先人たちに直接感謝を伝えることは今を生きる私達にはできない。しかし、これから出会う人たちのために何かしら貢献できれば、また、それを目指して歩んでいくことができれば、それが私達の先人たちへの感謝の表明ではないか、と、私は思うのだ。  「青空が、曇り空になり、雨空になり、闇になりました。怖かった」、これは、若くして弱視から全盲になった教え子がつぶやいた一言。今も胸を締め付ける。しかし、その教え子は、今生き生きと社会自立している。私自身、今は単眼鏡もルーペも使えない、ほぼ全盲者となったが、自身の経験を生かして教育相談や自立活動の授業に当たる盲学校教員としての日々は、変わらず続いている。