「ON STAGE. オンステージ」 北海道  宮崎 将郎  私は若年性緑内障により両眼合わせて四十六回もの手術を受けた結果八歳の時に視力を失った。  現在六十七歳になり、歩んできた道を振り返り見ると、紆余曲折はあったが周りの人達に助けられながらも、有意義な人生を送り順調に歳を重ねて来られたのではないかと感じている。  二年遅れで入学した盲学校の寄宿舎生活は親兄弟とも離れ最初は寂しくもあったが、時の経過と共に楽しいものに変わっていったと思う。  そうした中、小学部の同級生に不思議な能力を持ったy君がいた。  彼も全盲で、私にとって大変興味深い性質の持ち主だった。  廊下を歩く足音で誰かを当ててしまったり、ラジオから流れてくる外国の歌を即座に覚えてしまい、まるでコピーをしたかのような驚くべき特殊能力を持っていた。  当時流行っていた、英語、フランス語、イタリア語などの歌も、意味が分からないながらも音を聞いて奇麗な発音で歌っていたのだ。  それだけじゃなく、リズム感も良く部屋の畳にうつ伏せに寝転がり手足を使ってリズムを刻みながら歌うのだ。  四、五年生の頃だったと思うが私はちょっとした思い付きで、彼が見たことも触ったこともないはずのドラムセットに座らせてみると、いとも簡単に見事なバチさばきで叩きこなしてしまったのだ。  そんな彼に刺激を受けたのか私もギターを独学で覚えてy君との演奏を楽しむようになっていった…。  そして私達は中学部へと進み一九六九年(s四十四)にヤマハ主催の全国ライトミュージックコンテストに挑戦し、札幌地区予選を突破して全道大会へ行き、三位という、嬉しい結果を得られた。  その時にはy君がドラムとボーカルを担当して、アニマルズの「朝日のあたる家」という曲を演奏した。  またその大会では「バン」というアパレルメイカーがスポンサーをしていてファッション部門の審査もあり、シンプルなスタイルの私達がなぜか一位になり、サプライズを受け驚かされたものだった。  そのコンテストの事は良い思い出となって今も鮮明に記憶している。  その後私は高等部へ進み、新たな仲間とバンドを組み、楽しくやっていたと思う。  y君は中学卒業後、福井県鯖江市にある施設に入所した、その事については後になって知った事でとても寂しかった事を覚えている。  私は中学の頃にy君の将来についていろいろな事を言って先生達を困らせていたと思う。  彼は重度の知的障害があり通常の授業や日常生活には適応せず、重複障害者として、不運な運命を背負っていたのだ。  あれ程の天才的才能を持ちながらも人の人生とは難しいもので、なんと無慈悲で皮肉なものなんだと考えさせられたものだった…。  その後私は専攻科へ進み、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師の資格を取得し一九七五年(s五十)の春無事に卒業を迎え同時に治療院への就職も決めた。  治療院での仕事は患者さんとのコミュニケーションが楽しくもあり厳しくもありで治療を行う事で症状が改善されていく事に充実感を覚え順調にキャリアを積むことができたと思う。  そして一九八〇年(s五十五)に治療院を開業する事ができた…。  自分で稼げるようになると学生の頃には手が届かなかった、高価な楽器も買う事が叶うようになり、その後のバンド活動に大きな影響を与えたと思う。  若い頃にはプロになってやるなんて粋がっていた時期もあったが現実は難しく断念せざるを得なかったと思っている。  そういった中でも現在まで趣味としてバンド活動を続けてこられた事に幸せを感じている…。  現在のバンド活動の始まりは一九七三年(s四十八)で私が二十歳の時に高等盲の音楽好きが集まって結成した。  最初のメンバーはギター、ベース、ドラム、キーボード、サックス、パーカッションという六人編成で演奏していた。  当時はバンドブームで、すすきのでは多くのバンドが出演する店がたくさんあった、御多分に漏れず私達も毎週土曜の夜に知り合いが経営するバーで演奏させてもらっていた。  その店はすすきのからちょっと外れたとこにありマスターとママがとても面倒見が良く優しい人達で、演奏のみならず練習場所としても店を使わせてくれた。  その店での楽しかった思い出は今も忘れられない…。  そして私達はすすきののナイトクラブへの出演にも挑戦し、意気揚々と店のオーディションに向かいマネージャーにも聴いてもらい合格点をもらった、しかし後日連絡があり出演を断られたのだ。  その理由は目が見えないことで、物にぶつかったり急な出来事に対処できないだろうという事だった。そんな裏の事情で断られた事にメンバー全員が憤りを感じ、悔しくもあったが、仕方のないことと諦め、大変な挫折感を味わされた。  その後私が盲導犬の貸与を受けた事から盲導犬協会との接点が生まれ協会の一角にあったプレハブ小屋をバンドの練習拠点として使わせてもらう事になりその時のバンド名を「ドッグハウスクラブバンド」として活動していた。  そして数回のメンバーチェンジがありみんなが四十歳を迎えた頃に「フォーティーパワーズ」と改名して活動を続けていた。  長い間続けていると思わぬことも経験するものだ。  今から十年程前の十二月初め頃に私はアイスバンで転倒し右手首を負傷した、年末ライブを控えていたので痛みを押してそれに臨み、終わってほっとしたのもつかの間で、年が明けて間もない頃脳梗塞に襲われたのだ。  妻の機転ですぐに脳神経外科へ運ばれ、血栓を溶かす点滴治療のお陰で奇跡的に症状は改善し少しの後遺症もなく僅か九日間の入院で完治したのだ。これこそが不幸中の幸いという事だろうと思った。  また亡くなった仲間もいた、バンドには一年程在籍していた彼は腰の痛みを訴えて検査を受けると腎臓に癌が見つかりすぐに摘出手術を受けたが転移が広がっていて力尽き帰らぬ人となってしまった。  彼はギターが上手くバンドとしても貴重な存在だったと思う…。  そして二〇〇三年(h十五)バンド結成三十周年の時にノンフィクション作家の合田一郎さんにラジオドキメント「冬日こぼれる日」を作っていただきラジオで放送され、その際にバンド名も「SUPER ENDORPHIN.」スーパーエンドルフィンと改名して現在に至っている。  エンドルフィンとは脳内モルヒネとも言われるホルモン物質で痛みを和らげたり、気持ちをリラックスさせる効果があると言われている。  演奏する側と聴きに来てくれる人達が共に気持ち良くなれるようにと付けたバンド名だ。  現在のメンバーは視覚障害者が八人と、晴眼者が一人の九人で活動している。  みんなで企画を練り、役割分担を決めて年に五、六回のライブを行っている。  ジャンルはオールディーズが中心でその他メンバーそれぞれが好きな曲を選んで演奏している。  会場は小ホールやライブハウスなどを主に利用しているが、依頼を受けて夏祭りの野外ステージや大ホールでの演奏も経験している。  大きな会場での演奏は開放感がありワクワクもするが、私が特に印象に残っているのはすすきのにあった巨大キャバレーを借りて行ったライブだ。  その店のキャパシティーが七百席もありメンバーの友人にお願いして、総勢三十人のスタッフを揃えて行ったライブだ。  飲食も全て自分達で用意をして子供達を含めて四百五十人もの人達が聴きに来てくれた。それは私達を始めスタッフとお客さんが共に楽しく盛り上がることができた。  また結成三十五周年と四十周年の記念ライブはホテルを会場にして行いオリジナル曲も披露して、二百人を超える人達が参加してくれた。  そんな一つ一つが素晴らしい思い出として記憶に刻まれている。  そして毎回ライブの際に私達をサポートしてくれる人達を忘れてはならない。会場の設営や受付、楽器のセッティング、ミキシング、飲食関係全てが専門知識を必要とする事ばかりだ。  そのようにいつもサポートしてくれる人達には感謝の思いでいっぱいだ。本当にありがとう。  今年は結成四十七年目にあたる年だ。一月に施設の成人式に出演して以来活動を自粛している。  それは新型コロナウイルス感染症という経験のない事が起きている。  今やパンデミクとして世界に広がり大変な事になっている。少しでも早くに薬やワクチンが開発される事を願うばかりだ。  ポジティブな性格の私にはステイホームも大して苦にはならないが、安心してまたバンド活動ができるようになることを願い祈りたい。  y君との出会いから約六十年になりこうして仕事と趣味の両立ができた事は私にとって大変有益でとても有意義な事だったと思っている。  私にはまだ夢と目標がある。それは八十歳を迎えてもステージに立ってジャズやロックを奏でてイケイケ爺さんになることだ。  私はそれをよく人にも話している。それは言霊になるからだ。  その夢と目標を実現するには、健康で、気力体力を保ち、継続は力なりとばかりに続けていく事だと思っている。  I WILL GO FOR ON STAGE AT EIGHTY YEARS OLD.