「一歩」 長崎県  齊藤 美雪   昭和62年の秋 あの空はきっと高く澄んでいただろう。  引き戸を開けると、夜明け間際の空気がすがすがしい。牛が鳴いている。昔ここから見えた青い屋根のあの牛舎がまだあるのだろうか。幼い頃にはこの狭い庭でも十分遊べたものだ。生垣代わりの空色のフェンスいっぱいにイバラの濃いピンク色の小さな花が咲く頃、その根元にもレースを束ねたような淡いピンクのナデシコが揺れた。縁側に座って飽きもせず眺めた、眩しい光の中のあの風景は今でも鮮やかに瞼に浮かぶ。今、塀の際に並んでいる父の自慢の盆栽は、どの鉢も変わらずよく手入れされていることだろう。  敷居から踏み出す脚にスカートの裾がさらりと心地好い。今日のために選んだこの服は、数日前の父の一言で決めたものだ。嫁ぐ娘に相応しいものをと、迷っていた時、口数の少ない父がひょっこりと言ったのだ。 「桜のごたる優しか色のワンピースば持っとったろう、あれがよかたい」 驚いた。学生の頃、限られた視野の隙間から好きな淡いピンクが見えて買ったのだったが、社会に出てから挑戦的とも言えるような気持ちでいたこの5年、全く袖を通していないのに、その優しい色を纏った娘をいつ見たのだろう。そして、憶えていてくれたなんて。そうだ、無口だが、父はいつも優しい眼差しで見ていてくれたのだった。   「あらぁ」 後から玄関を出た母が嬉しそうな声を上げた。 「今日はよか日ばいねえ、サツキの咲いとるよ」 「えぇっ、今頃?」 驚く私の手を取り、導きながら母は優しい口調になった。 「ほら、ここと、ここに二つ、こまぁか花の咲いとる、あんたとMさんば祝ってくれよるごたるね」 台風の影響で、各地で季節外れの花が咲いているとのニュースを耳にしたが、この花もそうなのか、8月の終りの台風が長崎県にも被害を齎して対馬海峡を通過した。対馬の彼の実家も被災し、9月だった挙式の日取りが明日に延びた。もし予定通りだったなら、今日私はここにいないのだ。そう思うと、指先に触れる寄り添うようなこの二輪の花が本当に今日という日を、明日からMと二人で歩く人生を祝ってくれているようで、心の隅に潜む一抹の不安が薄れていく気がする。私は晴れやかな気持ちで両手を挙げ、空を仰いで叫んだ。 「よぉし!がんばるぞぉ!」 そして、「外国のごと遠か処やろ」と不安がる伯父や伯母たちと、両親と共に「国境の島 対馬」へ。  Mとの結婚は初めから許されたものではなかった。彼の両親は無論のこと、二人の姉、親戚の誰もが難色を示していると聞いていた。理由は、私が全盲だからだ。無理もないと思う。弱視の彼の親であれば、息子が目が不自由なのだから、せめて嫁には健常者をと願うだろう。それでも私は、今の自分に自信を持って歩いている私を一人の人として見てほしかった。Mの「会えばきっと分かってくれるはず」と言う言葉に、私は独りで対馬へ行く決心をし、職場の社長も「行くべきだ。君に会えば向こうの両親もきっと安心してくれるはずだから」と背中を押してくださった。  かくして、梅雨の最中に選んだような晴天の朝、その色を思い浮かべるだけで勇気が湧いてくるレモン色のワンピースを着た私は、大きな荷物を両手に持って、四苦八苦しながら白杖をつきつき、福岡空港行きのバスのステップを踏んだのだった。   S62年6月13日  もの凄い音をたてるこのプロペラ飛行機は、YS11という唯一の国産機らしい。相当な年代物らしく今にもバラバラになりそうだ。空港には彼が待っている。お土産は、お父さんに博多の焼酎、お母さんには久留米絣のもんぺ、それから甘いお菓子。  窓枠に置いた指にビリビリと振動を感じながら、あれこれと考えて気を紛らせては、また心が重く沈んでしまう。  今日、彼の両親は会ってくれないだろう。私が行くことは伝えてあるけれど、何の返事も無いらしい。彼は、「先ずは来てからのことだ」と言う。そう、会えなくてもともとなのだ。けれど、故郷の両親には何も話さないままだ。眼を悪くしてからどれだけ心配をかけただろう。盲学校を卒業してから、二人を喜ばせたい、安心してもらいたい、そう思ってやってきた。けれども目が見えないことが障害とならない幸福な結婚をすることが一番の親孝行なのだと思う。婚約を告げる時には笑顔で…  「皆様、当機は間も無く対馬空港に着陸いたします」 ふいにアナウンスが耳に入って、気がつけばこんな物騒な飛行機の中で物思いに沈んでいたことがおかしくて、私は心の中で弱気な自分に活を入れた。 「あきらめん 会ってもらえるまで何度でも来る」 それからショルダーバッグを肩にかけ、勢い折たたんだ白杖を掴んで、シャキッと伸ばした。  果たして、僅かな希望を捨てきれずに一日は虚しく過ぎた。けれども翌日の夕方になって、今日も終わりかとあきらめた頃、その手に野菜やら魚やら、たくさんの食材をかかえて、突然、待ち侘びた人たちは来てくれたのだ。あの時のアオサの味噌汁と煮物のおいしかったこと。穏やかで優しいお父さんとお母さんと、Mと囲んだ最初の食卓になった。   S62年10月5日  「美雪さーん!綺麗なよぉ!」 肩にかかる衣装の重みを、より重く一心に受け留めながら手を取られ、支度室を出た時、思いがけない声が聞こえて全身に電流が走った。一瞬の驚きと喜びが返事ともつかない声になって、咽元から口を突いてこぼれた。胸の奥から湧いてくるものに体が震える。いや、心が震えるというのはこういう気持ちなのかもしれない。声の主に応えたいけれど、声はどっちから聞こえただろう。見えていたなら顔を挙げて微笑むことができるのに。今さらながら少し虚しい。けれどもあれは、心から祝福してくれるような笑みをたたえた、紛れも無い今日から夫となる人の母の声だった。 『祝福してもらえるんだ 嫁として迎えてもらえるんだ』 目が熱くなるのを堪えながら思う。 『二人の結婚を許してくださってありがとうございますと、ちゃんと言葉で伝えなくては』  そう心に誓ってから、次の日も、また次の日もなかなか面と向かって口には出せないまま、歳月と共にそれはいつしか胸の奥にしまい込まれた。   平成17年3月18日  義母は78歳。難病の告知から2年、3度目の入院から自宅療養に戻って2週間が経った。日常生活のほとんどに介助が必要だ。それでも、明るくよく笑うところはそのままだ。少々我侭にもなったし、時には嘆きが止まらなくなり根気よく宥めなくてはならないこともあるけれど、私にとっては『してあげられる、頼ってもらえる、私でなければならない』と、そんな気持ちでいられる。体も頭の中もフル回転の毎日だが、この時のために蓄えられた力が体中に漲るような気がする。  うららかな午後の陽の当たるベッドに義母は腰掛け、私は洋服箪笥から服を出しては義母の背に当て、胸に当て、色を尋ねる。明日の病院のための洋服選びだ。リハビリでもするように頑張って袖を通し、ズボンに脚を入れる義母は、疲れるどころか活き活きとして嬉しそうだ。結局は、かなり余裕のあるズボンとゆったりしたセーターと、お気に入りの紫色のカーディガンに決まって、満足と同時にどっと疲れた義母をベッドに休ませて部屋を出ようとした時、「ああ おしっこがしとうなったよ」と後ろから呼び止められて、私は出しかけた足を戻した。 「すまんねえ 私はあんたがおらんかったら、とっくに死んどるよ」 「なぁんで そんなこと言うかなあ」 笑ながらベッドに片膝を折り、義母の脇の下に両手を入れる。 「起きるよぉ いぃち にの さんっ!」 まるで置物のように固まった背中を起こすと、私の背に義母の手がまわる。堅い体を片手で支えながら、もう真っ直ぐには伸びなくなった両膝の裏をもう片方ですくうように手前に回して床に下ろす。お互いにだいぶ要領を得た気がする。さて、立ち上がらせようと両手を差し出した時、だしぬけに義母が私の腕を掴んで泣きそうな声を挙げた。 「美雪さぁん、私はあんたに来てもろうちょって、ほんにぃよかったあ」 引っぱられるように床に膝をついた私の耳の奥に、忘れもしないあの声が聴こえた気がした。 − 美雪さぁん 綺麗なよぉ − 「お義母さん、私こそずっと言いたいことがあったとよ、Mさんと結婚させてくれて本当にありがとう、許してもらえとらんかったら、こうして一緒に暮らせんかった」 あとは言葉にならない。代りに涙が噴き出すように頬を流れて、義母の手を握った自分の指の上にぽたぽた落ちる。あんなに大きかった手が骨まで痩せたかのように細く、堅く小さくなって、「おおきによ おおきによ」と繰り返す声は、いつの間にかこんなに老いてしまった。 「ああっ おしっこ おしっこぉ」 私はてれ隠しに調子をつけて言いながら、顔をエプロンでごしごし拭いて立ち上がり、義母の膝の間に片膝を入れて腰を落とす。脇の下から手を入れて、「いぃち にぃの さんっ」「あれぇっ!」 まるで一つになったように軽々とお尻が上がって驚いた。それでも安定して立てるまで抱き合うようにしたまま支えるはずだったが、義母の足はちゃんと床を踏んでいる。片方ずつ腕を取りながら体を離すと、義母は私の手をしっかり握って危なげなく立った。二人して笑い合って、さあ余裕の歩みで、トイレ!トイレ!  義母の足取りが軽くなったのは気のせいじゃないと思う。昨日とは違う確かな重みがある。そして軽い。運ぶ足が見えるような気さえする。  ふと小学校の運動会の二人三脚を思い出した。何度も練習して結んだ脚が一つになった気がした時、嘘みたいに速く走った。けれども今度は急ぐことも走ることもない。躓かないように、疲れないように、一歩一歩確かめ合って、ゆっくりのんびり歩いていきたい。 この道がずっと遠くまで続くように願いながら。