「還暦までの記録」  岡山県  井上 健一  私は昨年の九月に還暦を迎えた。無事に還暦を迎える事は私の目標の一つでもあった。  私は昭和二十九年の九月に自宅で、生まれたそうである。  戦後の混乱期から、ようやく落ち着きが出かけた頃である。田舎では産婆さん(現在では助産師さん)を呼んで、各家庭で出産することが常であった。  ヘソの緒を切り取った後の、ヘソの消毒も産婆さんの仕事であった。  私は早産の未熟児で、約千九百gしかなかったそうだ。  私が生まれて数日後に事件が起こった。  事件というのは、産婆さんがクレゾールの原液の入ったビンを、我が家に忘れて帰ってしまった事が発端であった。  これを使ってヘソを消毒すればよいのだと思った祖母が、稀釈せずに塗布したそうだ。  異変に気が付いたのは外から戻って来た祖父だった。私の寝顔を見るために部屋に入った途端、クレゾールの強い臭いに、驚いたそうだ。更に私が仮死状態になっている事にも、気が付いたようだった。  原因を知って、家族は、蜂の巣をつついたような騒ぎになったそうだ。  我が家は町の中心街から四q以上離れた山の上の集落である。産婆さんが来るまでにはかなり時間がかかる。ようやく産婆さんが到着した。  私の姿を見るなり両親に向かって「あんたらぁまだ若いんんじゃぁけん、次を考えたほうがえぇでぇ。こねぇな未熟児がこれほどの目に合って、無事に成長するとは思えん。」と、一言告げたそうだ。  産婆さんが帰った後、とりあえず湯タンポを抱かせていたそうだが、手の施しようもなかったので、そのまま寝かしていたそうだ。  だれもが諦めかけていた深夜に、泣き声をあげたそうだ。沈黙から喜びに変わった瞬間だった。  特に祖父の喜びは大きかったようで、母乳が出にくかった母親の代わりに粉ミルクをしっかりと、買ってくれたそうだ。  そのおかげで、日増しに体重も増えていき、郡の健康優良児にまでなり、その様子を作文に綴った叔母が、森永乳業から賞を貰ったそうだ。  ようやく順調に行きかけた頃、大事件が起こった。森永ドライミルクのヒ素混入事件であった。  この時私が飲んでいたのはGドライミルクで、ヒ素混入の工場とは別の都道府県で製造された物であった。ここでもギリギリに命を救われたと言う事になる。  次は小学二年生になった時に、起こった話である。  突然熱が出て体中に痛みが来たので、内科の先生に往診を頼んだ。  聴診器で診察を終えた後、「急性の盲腸炎の可能性があるが、念のためレントゲンを撮ってみようか?」と言う訳で、その医院に急行した。結果は急性肺炎だった。もう少しで手遅れになる寸前だったそうだ。  少々話は変わるが、私に夜盲がある事に気が付いたのは、小学校入学前だった。  田舎なので、夜の星が良く見えるはずだが、十数個の星しか見ることが出来なかった。  従って、天ノ川や星座は、見たことが無い。  残念だったのは、以前の家の真下に、蛍が乱舞する場所があったのに、乱舞する蛍を見る事が出来なかった。  昭和二十九年頃と言えば、まだ食料も有り余るほどは無かったので、栄養不足による中途の夜盲症になる人も多かったようだ。  この頃は小学生の子供でも「おまえ鳥目か!鶏の肝を食べたら治るそうじゃぞ。」という言葉は誰でも口にしていた。  しかし、鶏の肝をいくら食べても鳥目が解消されることは無かった。  夜盲があっても昼間の視力はかなりあったので、自動二輪と普通車の運転免許も高校在学中に取得できた。  高校生活もわずかとなり、進路を決めることになったが、夜盲の事を考えると、なかなか決まらなかった。  だからと言って、進学する気にもならなかった。  一番あこがれていたのは、当時の国鉄の職員だったのだが、夜間に活動する事が多いので、諦めたのである。  しかし、どこかに就職しなければならないので、行き当たりばったりで、自動車会社の営業を希望した訳であった。  高校卒業したての者に、いきなり営業をさせる訳にはいかないので、一年間は研修を兼ねて事務をすることになった。  しかし転機は、いきなりやってきた。  昭和四十八年の第一次オイルショックがやってきたのである。  その時、タイミングよく故郷の隣の農協から誘いの声がかかった。  翌年の三月下旬で退職し、四月上旬から農協職員になったのだが、夜間に出歩く事が多いのに、改めて仰天した。  どうにか夜盲を治す方法は無いものかと、ごぶさたしていた眼科を訪れて、『網膜色素変性症』の病名と特徴を知った。  これまで夜盲に苦しめられたが、見えない状況がどのような事かを、長年経験してきたので、将来失明する可能性が大きいと聞いても、それほどのショックは感じなかった。  この時点で私の心を大きく揺さぶるものがあった。  それは、見えなくなることを気にせずに、明るく頑張ろうと言う気持ちだった。  だがその決意とは逆に世間の厳しさを目の当たりにする経験を何度もした。  この時にはそれほど感じてはいなかったが、昼夜自動車を運転していると、事故の確率も高くなってくる。  ある日LPガスを配達していた時、約四〜六mはあろうかと思える場所から、自動車ごと転落した事があるが、軽い打撲で済んだ。  この事故の後、わずか二m程度の川に転落した同僚が、即死した。この時ほど、運命の怖さに思わず身震いした事はなかった。  父親も、還暦直前で、交通事故死しているし、従兄弟も、還暦直前に病死した。このような経験から還暦を一つの目標としてきた。  昭和から平成になり、十年以上過ぎた時、思わぬ出会いがあった。  それは不定期で訪れていた眼科の先生からの言葉だった。  「こんな会があるけど、参加してみたらどうかな?」そう言った先生の手には一枚の案内状が握られていた。  この案内状は、[日本網膜色素変性症協会岡山連絡会設立]の案内文書だった。  直ぐに参加申し込みをし、二日後に集合場所である当時の岡山駅中央改札口に到着した。  そこには多くの白杖を手にした人がいた。まさか同じ場所へ・・・と思うと同時に、もし同じ場所なら将来はこうなるのかなぁと思った。  当たらないで欲しいと思った勘は、見事に当たった。  会場に着くと、更に多くの人が会場を埋めていた。  網膜色素変性症と言う病名を持つ人はこんなにも多いのかと、改めて知った。  この場では、全く知らなかった医療関連の話や、福祉制度の話を、聞くことが出来た。  そして、病気の進行状況も、百人百色だなぁと思った。  相撲の番付で言えば私の状態など、まだ幕下だとも思えた。  [明るく生きても暗く生きても、一生は一緒 明るく生きなきゃぁ損するよ]と言う気持ちを常に持とうと、改めて感じた。  同じ悩みを持った多くの仲間とも知り合うことが出来、治療法がないと言われてきた網膜色素変性症も、平成になってからあわただしく、治療法の確立に向けて、動き出している。  あと何年生きられるかは誰にも判らない事ではあるが、これからも希望を持って生きていきたいと思う。