語り継ぐ未来への友歩動 =災害からのメッセージ= 第3号 <凡例> 1.この情報誌は東日本大震災で被災した視覚障害者のおかれた状況を全国の視覚障害者と各自治体に啓発する目的で発行する。 2.人名・地名にはルビを付したが、他の漢字の読みは一般読みとする。 3.弱視者に配慮して18ポイントのフォントを使用している。 4.原稿は筆者に了解をいただき編集しているが、できる限りその当時の状況や思いを伝えるため、文体等は整っていない。  以上のことを了承いただきお読みください。 巻頭言 『災害は忘れた頃にやってくる』 公益社団法人 福島県視覚障がい者福祉協会 会 長 阿曽 幸夫  とかく、昔から「災害は忘れた頃にやってくる」と言われますが、今年の福島県は何事もなかったように穏やかな新年を迎え、私も初日の出を拝むことができました。  また、このたびの東日本大震災と東京電力福島第1原発事故におきましては多くの皆様方から心温かな義援金や、ご支援・励ましのお言葉をいただき、当事者として厚く御礼申し上げる次第です。  さて、今回の情報誌「語り継ぐ未来への友歩動 災害からのメッセージ」第3号では原発に悩む福島県について被災者の体験を中心にその思いをお伝えいたします。  思い起こせば月日の経つのは本当に早いもので、東日本大震災と福島第1原発事故から早2年と11カ月が過ぎてしまいました。当日私は患者さんの治療が終わったところで、それは平成23年3月11日午後2時46分のことです。「ゴーゴー」と地鳴りをたてて建物はきしみ、瓦は落ち、地面は地割れをおこし、立っていることのできないほど、かつて経験したことのない激しく揺れる大地震でした。  そして、そのころ太平洋側では異変が起きていたのです。地震から40分後の3時27分高さ4mの津波が押し寄せ、それから、8分後の午後3時33分には高さ15mに達する第2波の津波が福島第1原発を襲い、飲み込み、無残にも建物は壊れ、電気が止まり、冷やすすべを失った1号機の建屋は、3月12日午後3時36分、あってはならない水素爆発を起こしてしまいました。第1原発の想定していた津波の高さは5.7mに過ぎず、この3倍もの津波が押し寄せたことになりました。不幸にも放射能は風に乗って広い範囲に拡散してしまいました。その爪痕は復興の見通しのつかないままいつまでも残るのでしょうか。  今になってようやく私の家の周りも除染が始まりました。建物の屋や壁を洗浄器で洗い、家の周りの土を15センチ前後掘り起こし、そこに新しい土を入れ替えるという作業です。取った土はというと捨てる仮置き場もなく、各家の庭先に袋に入れたまま放置しておくのです。こんな形ばかりの除染をして本当に大丈夫なのでしょうか。  また、先日、私事ではありますが、東京の親戚においしいリンゴを送ろうかと思い、電話をかけたところ、「うちには子供がいるので福島県のリンゴはご遠慮させていただきます。」と断られてしまい、その言葉を聞いたときに原発事故からもう3年になろうとしているのに、改めて風評被害の重さを実感することができました。今、世界中で一番安全な農作物・水産物は一つ一つ検査をして出荷している福島県の食べ物だということを皆さんにもわかっていただきたいのです。そんな原発と放射能に向き合って生活をしている福島県には視覚障害者の手帳保持者が6,100名ほどおられ、現在でも県内外に300名前後の被災者の皆さんが仮設住宅や借り上げ住宅、さらには息子の家や施設などに慣れない環境の中で厳しい避難生活を余儀なくされています。  最近では、避難生活に少し慣れたといっても視覚障害者の場合は、とかく移動が自由にならないため運動不足や精神的ストレスがたまり、孤独な生活になりがちだと聞きました。特に福島県の場合は特殊な例で、原発と放射能という問題をかかえており、今後、もとの生活に戻れるには何年・何十年かかるかわかりません。そこで、私たち団体として県内視覚障害者のいろいろな支援はもとよりストレスに悩む県内外の被災者を中心に心のケアを続けていくことが最も重要な課題と考え、県当局に支援センターの増員をお願いしてまいりました。 現在の体制では、外に出かけることもできずきめ細かな支援やケアをしてあげることができません。そんな私たちの希望もかないこのたび福島県緊急雇用創出という形で昨年の10月から支援センター職員を2名増員していただくことができました。 今後は支援センター職員を中心に電話での生活相談やときには積極的に外へ出かけ、悩みを聞き、視覚障害者をはじめ、被災者の支援をしながら心の支えになれればと考えております。このような成果をあげられたのも、日盲連をはじめ、東北の皆さん、全国の皆さん、そして、県当局の皆さんのご理解があればこそとこの紙面をお借りいたしまして心から感謝申し上げます。しかし、災害・防災に関する課題は、まだまだ山積みにされており、各団体をはじめ一人ひとりが真剣に考え、今後も取り組んでいかなければなりません。昔から「災害は忘れた頃にやってくる」と言いますが忘れた頃にやってきたのが千年に一度という今回の東日本大震災と原発事故だったのです。お読みいただいた皆さんにとってこの情報誌が防災を考える一冊としてまた、災害を忘れないための一冊として、いつまでもお手元においていただきお読みいただければ幸いです。  最後に皆さんと共にこの言葉をもう一度考えてみましょう。 「災害は忘れた頃にやってくる」 ◇◇◇◇3.11あの時の風景(福島編)◇◇◇◇ 『東日本大震災を振り返って』 公益社団法人 福島県視覚障がい者福祉協会  東日本大震災の福島県における死者・行方不明者は1,800人に達している。さらに、震災関連死の人数は1,380人を越えた。福島県の死者・行方不明者は宮城県、岩手県に次いで3番目に高い数字である。しかし、関連死の人数は全国の50%以上を占めており、その割合は全国一となっている。関連死の数字からもわかるように、福島県には、長期に渡ってストレスを抱えて苦しんでいる被災者が多いことを物語っている。そして、原発事故による放射能被害で長期避難を強いられ、いつ故郷に戻ることができるか見通しが立たない状況が今後も続いていくことになる。  平成23年3月11日の東日本大震災による福島県の被害は、地震や津波によるものだけではなく、原発事故による放射能被害が加わった。地震翌日の3月12日午後3時36分、東京電力福島第一原子力発電所1号機が爆発事故を起こした。原因は、津波による被害で原子炉を冷却する電源が失われたためである。その結果、燃料を冷やすことができなくなり、燃料が露出して水素が発生し爆発が引き起こされたのである。2日後の14日午前11時1分には、3号機も爆発した。水素爆発と同時に、高濃度の放射能が空気中に大量に飛び散って、大きな被害を福島県民に及ぼすことになってしまった。放射能の被害から身を守るため、原発周辺部の市町村を含めて約12万人近くの住民が避難することになった。その中には3,000人近くの視覚障害者も含まれている。 震災直後の様子を県内の視覚障害者に聞いてみた。避難した視覚障害者のほとんどは、何の説明もなかったため、理由もわからないまま一方的に避難を強いられ、不安と恐怖の時間だったと話していた。地震があった3月11日、津波や家屋の損壊を恐れて体育館や福祉施設に避難して一夜を明かし、家に戻ろうとした早朝に強制的な避難が始まった。市町村の広報車や防災無線で、原発から10キロメートル圏内に住む人たちに総理大臣の避難指示が出された。その夜には、避難指示が20キロメートルに拡大された。避難した多くの人は、数日で家に戻れると思っていたので、わずかな現金と通帳と携帯電話くらいしか持ち出さなかったようである。気が利いた人でさえも、毛布や上着、薬、そしてわずかな食糧程度であった。現在も戻れない状況になろうとは、誰も予想してはいなかった。そして、避難所は行く先々で変わり、多い人では体育館や旅館、知人宅など6カ所を経由して仮設住宅に落ち着いた人もいる。  本協会の会員248名の全員の安否が確認できたのは約1か月後であった。会員に犠牲者はいなかったものの、本県では11人の視覚障害者が犠牲になってしまった。 仮設住宅での暮らしは決して快適とは言えない状況に置かれている。仮設住宅は市街地から遠いため、買い物が不便である。そのため、一度の買い物で1週間分を買いだめする。食料を長く保存することや、仮設住宅の調理器具が使いづらいこともあって、カップ麺やパン類やレトルト食品が多くなってしまう。市町村からは、健康管理のため肉類や野菜をバランスよく取りなさいと通知があっても、調理を手伝ってくれる人がいないと無理である。次に、体力の問題である。仮設住宅のような知らない土地では、ふる里のように自由に歩くことはできない。なぜなら、足裏の感触や音、臭いや風向きなどが違うからである。毎日のように出歩いていたふる里のようなわけにはゆかず、週1回か2回の外出が精一杯となり、足腰も弱ってくる。2年が経過したある日、仮設住宅内で転んだり、ふらついたりする話を聞いた。この先、弱らないでほしいと願うしかない。さらに、病院に通うことが不便なため、通院をがまんしたり回数を減らしたりすることが多くなったという。ヘルパーの派遣もあるが、緊急時や回数を考えると外出は控えめにならざるを得ないと聞いている。  福島県では、長期化する避難生活者が県内外に15万人いると言われているが、本協会で把握している視覚障害者の避難者はごく一部である。市町村と協力しながら、会員はもとより、非会員にも情報を発信して復興に協力しなければならない。原発事故による放射能被害が収まるのは30年以上かかると聞いている。長期化する避難生活の中で、孤立する人も多くなってきており、本協会が相談や支援活動を通して関係を築き、意欲をもって生きるために積極的にかかわっていかなければならないと感じている。 『あの避難所からの逃避行はいつ終わる』 南相馬市小高区 三上 サト子  目に見えないものに怯え・苦しむ私は津波の警報と同時にどう命令したかわかりませんでしたが、盲導犬のスイミーと一緒にみんなのいるところまで逃げることができました。今こうして私がここ栃木県鹿沼市に避難していられるのはスイミーのおかげです。それと隣の方の声掛けや消防のどなたかはわかりませんでしたが、声をかけていただいたおかげで家族と津波から逃れることができ、家は常磐線の線路のおかげで、床下浸水で済みました。でも建物は地震でどうなったかわかりませんでしたが、避難所二つ目にしてやっと座ることができました。避難所には一人暮らしの人や津波から逃れてきた人たちであふれ、そこはとっても寒く、体育館にはストーブが一つしかなかったので体育館用マットを引き、もってきた毛布にくるまっていました。こんなときです、贅沢は言えないと思い誰もが寒いとは声を出さずに身内の安否を気遣っていたのです。その心がわかるだけに余計に寒さが身に感じます。強い余震はいまだ収まろうとはしません。眠れないまま、私は繋がらないとわかっている携帯を操作しながら、その夜は不安のうちに一夜を過ごし、朝を迎えました。相変わらず寒く朝ご飯はありませんでしたが、誰もご飯のことは言わずに孫も何も言わなかったので、すごく親・バーちゃん二人は安心しました。息子夫婦は「家見てくる」と言ってバーちゃん二人と子をおいて体育館を出て行きましたが、まもなく帰ってきた二人は建物も被害はあったが家から見る海岸の光景は目を静止できないくらい変わっていたと言っていました。息子のいうことには「まだ正式に発表されていないから声をださずに聞いて」と釘をさされ、話を聞くとなんと原発が爆発したと聞き、体が小刻みに震えました。私は息子に「では家に10年は帰れないね」と言ってはみたが、そう思えば思うほど悲しくて残念でなりません。そして、その日の6時ごろ区の職員から原発についてどのような爆発がいつ起きたかどうなっているのか、どこへ避難したらいいのか、何の説明もなくただ「逃げてください」というばかりです。すると、避難所全隊が我も我も早く人は入口に殺到し体育館から離れていきました。「私ならどこでもいいからね」と言ったバーちゃん。私たち家族も孫の被ばくを考え、できるだけ遠いところまで逃げることを決断しました。そのときは山を越えてゆけば放射線は低くなると考えておりましたので、気象の風向きは私の頭にはありませんでした。運が悪くその時の風向きは不幸にも北西に吹いていたのです。しかし、遠くまで逃げるにしてもガソリンが乏しくなり山は越せないとわかったのであきらめ、そこで市内への避難所を探しましたがなかなか入るところがみつかりません。やっと入るところがみつかり、落ち着いたときは、もう10時ごろになっていました。とにかくここまで何とか避難してきましたが、ここから先はどうしたらよいのかわからずにみんなが途方に暮れていました。誰もが目に見えない放射能におびえ恐怖と不安を胸に、この先どうしたらよいかみんなで話し合ってはみましたが、その人その家族の考え思いがちがうので、どうだと一言には決められないままに避難所の中はいつのまにかすし詰め状態になってきたのです。まさに避難所は人間の缶詰でした。 それは年寄りから赤ちゃんまでが体の丈夫なものも弱いものも障害があるとかないとか言っている場合ではありません。見えない私にとっても何か心にほっとするものがありました。しかし、その避難所にはガソリンがなく、いくら考えても仕方がないのですが、山を越して逃げたくても逃げられないと悩んでいました。周りの数名の人は、どこからかガソリンを見つけてきたらしく、少しずつ知人の家に行く方や山を越えて避難する方も出てきました。それでもやはり中は缶詰・すし詰め状態に変わりありません。やっと物資を息子が運んできてくれたときは、とっても嬉しくでもそれがあるからといって自由に食べることができず、隣にいた方にも少しずつ分けてあげるのが精いっぱいでした。そのとき息子がいた時間は仕事の都合もあってわずか10分〜15分でしたが帰った後はさびしくてそれも仕方がありません。体育館の中は人が動くたびに埃が舞い上がり空気が悪くなって、のどや鼻が痛くなり、マスクを2枚重ねてものどや鼻・頭が痛くなるばかりです。いくら我慢ができると言ってもトイレだけは困りました。ようやく避難所にも仮設のトイレができ、私も連れていってもらいましたがびっくり。それは子供用のトイレでした。同じものをとりあえず大人も使うと聞き、また、びっくりです。中に入ろうとしても上がり降りの段差が高いことや汚れている、便器の向き・水洗レバーの位置がわかりにくく手で確認することができません。そのうえトイレは和式でしたので膝のわるい人たちにとっては使用がたいへん困ったようでした。寒いせいか大勢の人たちが次から次へと使用するのでタンクの水がたちまちなくなってしまいます。そのたびにプールからバケツリレーで補充をします。物資のあまりない避難所生活は予想もつかないほど大変でしたが、バケツリレーでもわかるように寒さとストレスの中にも助け合いの精神が表れていました。ようやく少しガソリンも手に入り、私たちは南相馬市から出て向かったのは須賀川市でした。着いた先は須賀川アリーナという避難所です。ここに私も一泊しましたが避難所生活にも疲れ、薬もなくなり体調はあまりよくありません。そこで日頃から丈夫でない私を少しでも手足の伸ばせる所と考え、息子たちは相談して栃木県の息子の家に行くことにしました。車でスイミーと一緒に向かった先は鹿沼市です。 人間以上に繊細な神経の持ち主のスイミーは慣れない環境の中で私以上にストレスがたまり大変だったことでしょう。そんなスイミーと私は1晩息子の家ですごし別れるのはつらくさびしかったけどこれもスイミーのためだと思い決心をして協会に預けることにしました。「いつも私の目となって歩いてくれたスイミー本当にありがとう御苦労さま今度きっと会いにくるからね」といって頭をなでお別れしましたが別れ際に悲しそうに泣くスイミーの声に私も涙が止まりませんでした。その日からスイミーは疲れとストレスからリタイヤしてしまったのです。 その足で医者にかかろうとしましたが避難のときなにももってこなかったので保険証はなし、お薬手帳もなし、障害者手帳もなし、そのうえ三上サト子と証明するものが何もなかったので事情をお話ししましたが、県外の医者にかかることはできませんでした。 こんな災害の時こそ本人証明がなくても診察をしてくれたらと思いながら待合室でぼんやりしていると困っている様子を見て看護師さんが「実費なら大丈夫だと思いますよ」と声をかけてくださいました。ちょうどそのとき私はお金も持ち合わせが少なかったのですが、とりあえず診察をしていただきました。 先生の言うことには高い血圧を下げるには今ゆっくり休むことが一番の薬だと言われ、1週間分薬をいただき病院を後にしました。息子のところに帰り、薬を飲んで時間を忘れ昏々とどのくらい眠ったことでしょうか。ふと目を覚ましてみると外の様子は二日目の夕方のようで頭の重いのも少しらくになり、お腹が空いたせいか久しぶりにご飯を美味しく食べました。痛かった歯もようやく楽になりましたが、今度は口内炎や顔の吹き出物がひどくなり、それもあって熱が少々出てしまい、人の前にはでることができません。皮膚科で診察をしてもらい薬をいただきましたが、よくならず増えるばかりです。そこで、皮膚科を変えてみたら避難生活からくる疲れとストレスが原因と分かり薬を使わずに時間をかけて少しずつ治すことにしました。 しかし、不幸は続くものです。そのとき体重の減少にも気が付き免疫力も落ち始め新たな病気がまたでてしまい、私は驚いてしまいました。災害は恐ろしいもの、自然界だけでなく人間の体も蝕んでしまいます。それからというものは治療を続け息子の時間をみては散歩の生活でした。でも息子の仕事や都合もあってそれもできなくなり、やむなく兄のところへ行くことを決意し、兄夫婦の世話になることにしました。その後もしばらくの間、散歩と治療を続けていると顔のデキモノは落ち着きお医者さんに大丈夫だと言われたので治療は終わりました。兄夫婦には本当に世話になり感謝の気持ちでいっぱいです。体調も、少ずつ良くなり始めたので息子に迎えに来てもらい再び鹿沼市に戻り、鹿沼での生活が始まりました。本来なら、みんなでこうして暮らしているのですから気持ちも落ち着いていいのですが、先々のことなどを考えてしまうと不安になってしまい何かが違います。気を紛らわすために外へ一人で出ようとしても慣れない環境と土地勘がないため散歩することができません。家の中ばかりにいるといろいろなことを考えてしまい気持ちが悶々としてしまいます。ついつい携帯電話をかけまくり携帯依存症になってしまい電話代がかさみ息子にどやされる日々が続きました。携帯が傍にないとなにかイライラしてくるのです。 そんなとき白杖をうまく使って歩けばと思い、福祉課や友に聞き、ひと月2回で10回の指導を受け料金は少しかかりました。勇気を出して表に出てみてもそんなには、すぐにうまく歩けません。道を間違えてしまい山の方に入って出て来れなくなったこともあります。 私は少しでも外に出ようかと思っていましたがそんなこともあって誰かが家にいるときだけ出るようにと言われる始末です。 特に、バーちゃんは私が表に出ると心配で心臓がドキドキするというので外に出るのをやめました。ですので家の周りさえもなかなか覚えられません。そんな心の沈みがちな時にスイミーのリタイヤ先もわかりうれしいことに福島県盲人協会から「元気かい」という電話もいただき会長さんともお話しすることができました。また、うれしいことは続くものでスイミーを一年間育ててくれた横浜の岡村仁美さんとも連絡がとれるようになり、元いた津市のヤマバトの会の皆さんと遠いところにもかかわらず栃木県鹿沼市にきていただき、お会いすることができました。そのとき音訳したデイジーを持ってきていただき楽しみに聴かせていただいております。いまでも電話をしたり、楽しい交流が続き私の心の支えになっています。そのうえこの会を通して皆さんに声をかけていただき、昨年の5月に2年と57日ぶりになりましょうか南相馬市小高区の我が故郷に足を踏み入れてきましたが、私はただただ涙が出て茫然とするばかりです。また、家の中に一歩足を踏み入れるとカビのにおいやネズミのおしっことウンチの汚れたにおいで、目・のど・鼻が痛くなってしまいそのあり様には言葉も出ず悲しみに押しつぶされるばかりでした。たとえ帰ったとしてももうこの家に住めないと思うとまた、涙がこぼれてしまい周りの風景をみても津波に押し流された船や車が今も野ざらしにされています。もう一つの大きな悩みは、原発の問題です。私の住んでいた小高区は福島原発から20キロ範囲内でいまだ帰宅できずようやく除染が始まり、家の周辺の木の皮は、はぎ取られ枝は切り落とされ一緒に行った方はみんな口をそろえて目を覆いたくなるような光景だというのでした。今、除染をしたからといってどうなるのかわかりませんが、畑や田んぼも同じで、いつになったら農作物が作れるようになるのでしょうか。 誰もがわからずに迷いさ迷う人の心を思うと胸が締め付けられ自殺をしたくなる人の気持ちがわかるような気もします。ここはみんなで考えてゆかなければなりません。  今までは、放射線量を量らなくても済みましたが、でも今は測らずにはいられないと友はいうのです。この放射線と簡単にいっていますが、目に見えないお化けよりもっとこわく、もっと恐怖に感じます。これを恐怖と思わずに過ごしている人はいないと思いますが、早くこの逃避行が終わることを祈るばかりです。これから先、何事もなければこの逃避行中にもいろいろな方にお世話になると思います。いままでもたくさんの方にお世話になりました。あのモンゴルからきて通訳をされていた方に入れていただいた、おいしくて温かい心のこもった一杯の紅茶の味はきっと一生忘れることはできないでしょう。 また、私の周りの人はいつも電話をかけてよこし励ましてくれるのでなんとか元気になってきましたが、病気は体を食いつくすのか私が病気を食うのかどちらが先になっても今はこの日を大切にしたいと思っています。私は、最近同行援護で使える散歩をしながら季節の変わりゆくことを耳で知り、頬に触れる暑さ寒さの空気を知り、歩ける喜びを体で感じつつ散歩する方との立ち話を楽しんでいます。ときおり犬をつれている方との出会いがあればスイミーを思い出し、今は思いだせるのがうれしく感じるようになってきました。 また、デーサービスも利用できるようになり、出かけて行っておいしいお料理をいただき、皆さんのカラオケを聴かせてもらい中学生の勉強会という紙芝居をたのしみみんなにお世話になっていつも帰宅します。これからもまだまだこの逃避行は続き、見通しのつかない原発に怯え苦しみ、体がぼろぼろになり、それでもいつか我が家に帰れる日を夢に見ていつまでも元気で避難生活を過ごしたいと考えて居ます。それを信じることが今の私にとって一番の薬であり、心の支えでもあります。  最後に私は現在も東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故と津波により栃木県鹿沼市の息子の家に避難をしています。書きたいことはいろいろありましたがあまりにも多いのでなにを書いたらいいのか悩んでしまいました。思いつくままに書いてしまいましたが、まとまらない文章になってしまったことをお詫びし、お読みいただいた皆様方にこの震災と原発事故を通して何か感じていただければ幸いです。いままでお世話になった皆さんこれからもお世話になる皆さんに心からの感謝とお願いを申しあげ「あの避難所からの逃避行はいつ終わる」を閉じさせていただきます。 『早く戻りたい緑ある自宅へ「あの日あのとき」』 南相馬市 矢島 秀子  福島県は南相馬市小高区に私たち家族4人が住むようになったのは、昭和53年12月25日でした。駅前にあるラーメン屋で食べた一杯のラーメンの味に家族みんなが感激し、おいしいラーメンがあれば知らない土地でも暮らして行けると互いに励ましあいました。そのころは合併前で小高町でした。私の眼の不自由なことを知り、役場や、学校・病院・商店街の近い、街の住宅に入居させていただき、バスや電車で隣町の眼科へ一人で出かけたものでした。連れ合いは、原子力発電所6号機の建設現場で、朝から夜遅くまでよく働いてくれ生活も安定しておりました。二人の息子に原発の素晴らしいことをよく話して聞かせ、自分の仕事に誇りを持って働いておりました。連れ合いは、昭和から平成に年号が変わった年に癌になりこの世を去りました。  小高区は自然が豊かで家族で海に山によく出かけました。山菜を取り、魚釣りや昆虫採集も行い目の不自由な私も一緒に出かけ、良い子育てができたと思います。 「網膜色素変性症」の私の視野は50歳を過ぎると進みだし、よくけがをするようになりました。白杖を勧められて訓練を始めたころ同じ町に住む視覚障害者の方と友達になり、点字を教えてくださるボランティアの方を紹介してくださいました。 盲導犬と一緒の友は、よく誘ってくれるので一人歩きにも自信がつき、買い物やコンサート・交流会へ出かける楽しみが増え、忙しいときもありました。難しい点字も少しずつ読めるようになり、本を読む楽しみも取り戻すことができました。息子たちも結婚して親になり、私は二男夫婦と孫の4人で暮らしておりました。 気候も温暖で地域の人も優しく、何の苦もなく、生活をしておりましたが、平成23年3月11日午後2時46分あの東日本大震災を期に総ての環境が一変してしまいました。立ち上がることもできないほどのものすごい揺れ方にコタツに頭を隠して耐えました。何かが割れる音が続けざまになって身の危険を感じ、外へ這い出した時は夢中でしたが、逃げてきた近所の方が声をかけてくださって安全な駐車場へ連れ出してくれました。そのうえ、まだ強い余震の続く中を私の上着と靴を取りに行ってくださいました。その日は風が強く、家に一人でいましたから、本当に助かりました。あちらこちらでガスボンベが倒れ シューシューとすごい音がして臭いもきつく、いまにも爆発するのではと不安でたまりませんでした。瓦の割れる音が絶えず聞こえ防災無線は「児童を迎えに来るように」と繰り返し叫んでいます。 私は近所の人たちと一緒に家族の帰りを待ちました。4時近くになると車で帰ってくる人が多くなり、私の家族もけがもなく、無事戻ってくることができほっとしました。 区長さんと組長さんが忙しく住民の名前を大きな声で呼びながら駐車場の中を回っています。防災無線は津波警報に変わりました。  私たちの所からは里山に隠れて海は見えませんが、海までは、約2.5qほどあります。相馬市や原町の北から富岡や双葉・浪江の南の勤め先から戻った人たちが話す大津波の被害にはだれもが息を飲みました。海辺の地域を跡形もなく飲み込み国道6号線を飛び越えて、常磐線の線路際まで津波が押し寄せ、海が近くに見えているというのです。近くの椙の枝に琥珀チョウが11羽飛んできて止まったと聞き、私は「不思議だなー」と思ったものでした。 あの時津波は近くまできていました。  余震は依然として変わらず続き、ときどき地鳴りをたてて揺れます。風が強くなり電気はきていましたので、家の中に息子が入り、冷凍食品をレンジで温め、とりあえず夕食を取ることができました。そして、11日の夜は車の中で眠れない一夜を過ごしましたが、ときおり海辺に住んで家を流された方がはぐれた身内を探しに来られ、本当になんと声をかけてあげたらいいのか言葉が出てきませんでした。  12日の朝になり、早くから防災無線は水の配給場所や避難所の場所を知らせていました。しばらくすると、浪江に住む方が「浪江の町の交差点にはロボットみたいな白い服を着て原発が爆発しそうだから、津島か三春の方へ車を誘導している」と知らせにきました。まさか、あの頑丈な原発がと思いましたが、自治体や防災無線からは何の情報も入ってきませんでしたので、私たち家族4人は駐車場の車の中にいました。  我が家の屋瓦もだいぶ落ち、土台から家が少しずれたというので、近くの工業高校の体育館に避難をしました。中は混雑していましたが奥の方に座ることができ知り合いも多かったのでほっとしました。でも外にある仮設のトイレには特に気を遣いました。 いつも私は夜中に一度トイレに行く習慣があるので、この日も寝ている人に触れたりぶつかったりはしないかと心配をしながら外に出てみてもトイレはなかなか見つかりません。夜中ですので人に頼むこともできず、悔しくて悲しくてついつい涙が出てしまいました。ようやくみつけて入ろうとしても、高齢の私には段差が高く、余震で揺れるトイレにはつかまるところもないので、倒れそうになってしまい利用するのが大変です。それに便器の向きや水洗のレバーの位置がわかりにくいのにも困りました。そして、全ての環境も変わり、戸惑いなにもすることがないので横になっていると、どこからともなくラジオの音が聞こえてきました。耳をすましてみると県外状況も少しずつわかり、遠くにいる親戚のことが心配になってきました。私はじっとしておられず、ようやくたどり着いた公衆電話の受話器を手にとって、宮城県にいる親戚の無事を確認することができました。体育館には身内を探す方が多くみられ繰り返し名前を呼ぶアナウンスの声が流れていました。 外は、今朝からあいかわらず冷たい風が吹いています。昼はこんな混乱のなかでも、食事を届けてくださる方々に感謝をしながら温かい大きなおにぎりをおいしくいただきました。 夕方になりだしたころ突然避難所の移動を告げられました。原発が危ない、20キロ圏外へ。ざわざわした館内が静まり返り、だれも先を争うこともなく車で北へ向かってゆきました。原発事故は次々と起きてしまい、私の家族も原町の親戚を頼りましたが、それもつかの間17日の朝早くに南相馬からも逃げだしました。スーパーが・病院が・薬局が四日の間になくなってしまい、住民も一部の人だけが残り全国に散らばってゆきました。 17日の朝は冬の寒さも特に厳しく、ガソリンも乏しくなり、車の中は冷え切ってしまい孫の毛布にくるまっていました。飯館村を通り川俣町に入ると雪がちらちら降っていて路面が白くなり始め、他に車はなく、私たちと親戚の車だけでした。すると、突然けたたましいサイレンの音が近づいて反対の方向へ走り去ってしまいました。バスを先導していたそうです。あんなスピードでしたからとうとう南相馬にも死の灰が降ってしまったかとさえ思いました。とりあえず私たち家族は、会津方面に向かいましたが、そこは大雪で無理だとわかり、栃木県那須町の知り合いを訪ねることにしました。ところが知り合いの家も地震の被害は大きく、建物が壊れ、停電・断水が続いて困っておりましたので、迷惑をかけては悪いと思い、道の駅の防災相談所で避難所を聞いたところ、国立塩原視力障害者センターを紹介していただきました。センターも地震で建物が一部壊れ、満員で入ることができませんでした。そこで、遠い三重県が最後と考えておりましたので、センターに車を預け、那須塩原駅までタクシーにのり、新幹線を乗り継いで夜遅くに三重県津市につきました。親戚の人はニュースを見て心配していましたが、みんなの顔を見たら安心されたようで私も来てよかったと安堵しました。そして、夜遅い時間にも関わらず温かい食事を御馳走になり本当に長い長い一日でした。 明日からまた、慣れない土地での生活が始まります。孫のことも考えて借り上げ制度のない津市の県営団地に入居することにしました。 4月に入ると息子は原町区の会社にすぐ戻り私たちは10カ月ばかりを三重県でお世話になりました。三重県は花の季節を迎えておりましたが、被災地のこと、特に原発のこと、それに余震の続く中で仕事をする息子のことが気がかりでいつもラジオから離れることができませんでした。また、避難先でイジメにあうニュースを聴いては胸が痛み、下校して来るまで孫のことが心配でしたがときどき担任の先生が訪ねてこられ明るく友達と一緒に学校を楽しんでいる様子を話してくれるのでそんなときはホットします。日を追うごとに三重の言葉に慣れて食事時はまねをしてはみんなが笑顔になります。私は知らない土地に慣れることもなく、ラジオの傍にいて風評被害に腹を立てながら「福島です」とはっきり言えない自分にも腹が立ちました。  5月も半ばを過ぎたころ、離れ離れの友達とも連絡がつくようになり、元気を取り戻すことができ、遠く離れた故郷が次第に恋しくなりました。きっと孫も原町区の職場に復帰しているお父さんに早く会いたいことでしょう。その後原町区の一部が避難解除になり、私たちも仮設住宅の申し込みをしましたが、家族4人で住むには狭すぎるので2度見送りました。それでも四畳半3部屋を二部屋に使えるように作ったと言うので帰れなくなっては困ると思い、24年1月8日に小高区の住民が多く入居している鹿島区の仮設住宅に入ることにしました。とりあえず住宅には最低限度生活ができるだけの設備は整っていますが、部屋の狭いのにはなかなか慣れることができません。孫と寝床が一緒なのは私にとってうれしいのですが、育ち盛りで部屋がいよいよせまくなり、最初から離れて暮らすのがこの子にはよかったのではと思うようになりました。それに隣の壁も薄く、しゃべる声やテレビの音が聞こえプライバシーを守れないのも一つの悩みです。また、私は南相馬に帰ったら白杖で思いっきり外へ出ようと楽しみにしていましたが、仮説は砂利道で目印もなく、工事の車や一般の車も多く、建物も長屋の用で、一人で歩くことができません。交通の便も悪く、車を持たないと不便な場所です。そんな仮設での生活も1年と11カ月が過ぎ、いまでも放射能のことは毎日頭から離れません。 最近洗濯物や布団を外に干す家が増えてきましたが不安になってしまいます。孫の食事も心配になります。内部被ばく検査もうけました。家族全員異常はありませんでしたが、周囲に放射線量の高いところもあり、事故があった原発では、いまでも毎日のように小さなトラブルがあるとニュースで伝えられております。まだまだ安心はできませんが、24年8月に公益社団法人福島県視覚障がい者福祉協会の働きかけで、相双方部(そうそうほうぶ)を立ち上げることができ、それを期に地域の会員たちとの交流も始まりいろいろな支援が受けられるようになりました。早速、声で線量を知らせる「しゃべる線量計」を永久貸与でされ、そこに住む私は線量計のお知らせの音で、一日が始まり不安な気持ちを安心させてくれます。  今、私たちの住んでいる南相馬市の視覚障害者が困っていることは自由に外出ができないことです。障害者自立支援法が改正され、同行援護事業がスタートし視覚障害者のガイドヘルパーが保障されたと聞きますが、それは大きな都市のことだと思います。特に、南相馬市では、いまでも人口の流出が続いており、人不足のためガイドヘルパーも少なく、頼んでもなかなか利用できません。ここにも地域格差が表れています。それでもうれしいことになんとかサービスを受けられるようになり、私は月に4時間仮設の近くを散歩のために利用することができ、少しずつ頭の中に地図が浮かぶようになりました。 そして、一人で外へ出かける気持にもなり、白杖を頼りに歩いていると「矢島さん気をつけてね」と近所の方が声をかけてくださいました。「矢島さん大丈夫かい」と、ひときわ高い声で集会場の管理人さん。「ありがとう」と私も挨拶を返します。今では周りの人とも立ち話をするようになり楽しんでおります。地震の時、近所の方に助けていただきました私は、ここに住んでいることを知ってもらいたいと思います。 そんな仮設住宅の生活にもだいぶ慣れましたが、福島県の復興はまだまだ遅れていて、やっと小高区は始まったばかりです。原発に近い街には、今なお人の出入りが自由にできず、手の施しようもなく、また、原発の汚染水は近くに住む人だけではなく、地球全体の問題です。世界の科学者にぜひ取り組んでほしいと説に願わずにはおられません。復興のためにたくさんのお金が使われていると聞きますが、仮設住宅で暮らす私たちの生活は、入居した時と同じ状況です。買い物・散歩・通院・栄養等について心配することばかりです。  お願いすることはたくさんありますが、今回の震災と原発事故ではいろいろな方にお世話になりました。ボランティアの皆さん・近所の皆さん・福祉関係の皆さん・それに数え切れないほどの多くの皆さんにもお世話になりました。 本当にありがとうございます。これから先、私も何年生きられるかわかりませんが、長生きをして皆さんから授かったこの命をいつまでも大切にしながら、けして感謝の気持ちを忘れず、逆境の中にあっても強く生き抜いていきたいと考えております。 そして、原発の無い緑あふれる自宅にいつか戻れる日を夢見てがんばり続けようと思っております。 原発はもういりません。私の連れ合いがお世話になった原発はもういらないのです。 【実行委員会の記録】 10月12日 語り部の会 秋田県秋田市 10月14日 語り部の会 山形県山形市 10月20日 語り部の会 岩手県盛岡市 11月10日 語り部の会 埼玉県さいたま市 11月17日 第2回語り部検討委員会・ 第7回実行委員会  開催地:盛岡マッサージセンター 11月24日 語り部の会 新潟県新潟市 12月21日 第8回実行委員会 開催地:仙台市福祉プラザ ―震災図書情報― 宮城県視覚障害者情報センターでは、東日本大震災をテーマにした図書を視覚障害者向けに点字や音声に翻訳する作業を進めている。 現在までに99種貸し出し、郵送も可能である。 昨年末で点字図書が37種類、音訳図書(CD)が62種類である。  翻訳作業は震災直後から始まっており、センターで活動する約170人の奉仕員が、本の内容から点字や音声に変換できる元原稿を作成している。  伊藤甲一所長は「視覚障害者にも震災の状況を伝えようと頑張ってくれ ている」と話している。 主なものは以下のとおり。 <点字図書> ・「大震災のなかで 私たちは何をなすべきか」 内橋克人著(岩波書店) ・「沈黙の海 2011・3・11東日本大震災追悼詩集」 菊田郁著(潮出版社) ・「原発放浪記 全国の原発を12年間渡り歩いた元作業員の手記 川上武志著(宝島社) ・「つなみのえほん ぼくのふるさと」 くどうまゆみ著(市井社) ・「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙」 河北新報社(文芸春秋) <音訳図書> ・「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力」 ダライ・ラマ14世著(大和出版) ・「永遠に語り継ぎたい3・11の素敵な話」 やまだひさし著(ぱる出版) ・「震災の石巻−そこから 市民たちの記録」 創風社編集部(創風社) ・「官邸の100時間 検証福島原発事故」 木村英昭著(岩波書店) ・「原発はいらない」 小出裕章著(幻冬舎ルネッサンス新書) 連絡先は同センター 022(234)4047 <編集後記> 今号では、南相馬市に震災当時暮らされていた方の原稿を中心に編集しました。 未だに自宅には戻れず、仮設住宅や借り上げ住宅、あるいは親戚等で避難生活をされている方々が福島にはたくさんいるものと思います。その不自由な生活の中で原稿を書いていただいたお二人の方に改めて御礼申し上げます。  このお正月は私も4年ぶりに大島の実家に帰りました。震災以来、初めての帰郷です。両親とは、仙台で何度か会っていましたが、やっと帰ることができました。 それは、私の心の中になにか津波の被害に触れてはいけない感覚が合ったからだと思います。 自宅は震災前と何も変わっていませんでしたが、気仙沼の沿岸部は、あの賑やかだった町が本当に何もなくなっていました。国道45号線の両脇はいまだに何もありません。 船着き場のエースポートもプレハブです。復興屋台横町が近くにありますが、あまり人が入っている様子もありません。町全体が沿岸部から内陸へ移動した感じです。 大島の沿岸部も同じようなものです。食堂やお土産屋が並んでいたところはたった1軒だけ鉄筋コンクリート作りの店が残っているだけです。 私の親戚は、震災前は牡蠣やホタテの養殖をしていました。津波により自宅と船・養殖用イカダを流されました。昨年までは仮設住宅に住み、ガレキの撤去等をしていました。今年からは大島を離れ、復興住宅に住むそうです。大島にも平成30年には、島民の念願であった大島架橋がかかります。でも全ては遅すぎた感があります。産業の復興の遅れから、島を離れて行く方々が多いのです。 本当に津波は、想像を絶する力で建物や船・車を飲み込み、押し流し、吹き飛ばして行ったことがわかります。宮城県は瓦礫こそ取り除かれていますが、そこに住んでいた方々はばらばらになり、きっと元のような生活には戻れないでしょう。 そして、福島の原発に近いところでは、人さえまだまだ立ち入れない状況です。先日深夜の番組で、原発近くの漁師さんのドキュメンタリーを放送していました。いまだに海底の瓦礫を取り除いているそうです。魚は捕れても出荷はできません。決して放射能汚染があるからではありません。風評被害です。  まもなく、あの震災から3年です。しかし、その影響はまだまだ続くのです。 それを私たちは、同じ人間だからこそ語り継ぎ、確実に次の世代へ残していかなければなりません。 今回の情報誌の編集を通して、改めて実感しました。  1月17日には阪神・淡路大震災の慰霊祭が行われています。 次の号からは、いままでに起こった大震災の話題にも触れていきたいと考えています。 神戸市、兵庫県、大阪府、新潟県の方々の原稿をお待ちしております。 電話ファックス兼用022−213−5811 メールアドレス senshikyo@mvg.biglobe.ne.jp 編集委員長 仙台市視覚障害者福祉協会 高橋秀信 語り継ぐ未来への友歩動 =震災からのメッセージ= 第3号 発 行 日 2014年1月31日 発行責任者 社会福祉法人日本盲人会連合会長 竹下義樹       〒169−8664 東京都新宿区西早稲田2−18−2       電話 03−3200−0011(代表) 編   集 東日本大震災視覚障害者 復興支援プロジェクト実行委員会