語り継ぐ未来への友歩動 =震災からのメッセージ= 第2号 <凡例> 1.この情報誌は東日本大震災で被災した視覚障害者のおかれた状況を全国の視覚障害者と各自治体に啓発する目的で発行する。 2.人名・地名にはルビを付したが、他の漢字の読みは一般読みとする。 3.弱視者に配慮して18ポイントのフォントを使用している。 4.原稿は筆者に了解をいただき編集しているが、できる限りその当時の状況や思いを伝えるため、文体等は整っていない。編集上、一般的な語法に揃えた箇所もある。  以上のことを了承いただきお読みください。   『未だに防災百年の計』  東北盲人会連合  会長 柿沼 正良  皆さん、情報誌「語り継ぐ未来への友歩動=災害からのメッセージ=」創刊号を読んで頂きましたでしょうか。  前号では岩手県の視覚障害者支援ボランティアの活動や、被災者自らの体験ルポが掲載され、更に『大規模災害防災等における自治体への要望』などが主な内容でした。  被災地を含め日本列島は、今なお時おり僅かな揺れを感じる事があり、あの震災を片時も忘れる事はありません。加えて今年の夏は西日本を中心に、記録的な猛暑日が続いたり不安定な天候と活発な前線の影響で、局地的に記録的な大雨が降った所もあったりと、自然災害による大きな被害をもたらしました。被害を受けた方々に思いをはせながらも、私達自身あらゆる自然災害に備え、体験などを聞き記録を読むなどして、災害に備えるべく予備知識を深めていくことが大切です。  さて、情報誌第2号として、今回は3・11 あの時の風景(宮城県)や7月6日(土)に復興庁や東京電力の担当者を招いての「防災研修会」、更に7月26日(金)と27日(土)に岩手・宮城・福島の会場で行われた、語り部登録者に対する「語り部育成研修会」を実施しましたので、その時の様子を報告します。  期間限定ではありますが、視覚障害者のための「震災ホットライン」がフリーダイヤル、0120ー104955(トーホクゴーゴー)として設置されました。日盲連の要望に応えて、「独立行政法人福祉医療機構」が助成事業として運営しています。皆さん、福祉医療機構に感謝しながら大いに利用しましょう。  この6月に関連二法案として、「改正 災害対策基本法」と「大規模災害復興法」が成立し、災害時要援護者名簿の作成が、市町村に義務づけられました。  私達が提出した要望書が適正に受け止められ、関連二法案が活かされ実のあるものになるように「復興に命をかける」と言っている村井嘉浩宮城県知事に対しても、必要に応じて、要望して行きたいと考えています。  そのためにも常に復旧復興の状況を見極め、大震災関連のマニュアルや資料 体験談などを参考に、日頃研修を心がける必要があると思います。  それこそが「備えあれば憂いなし」、という事につながるのではないかと思う今日この頃です。 ◇◇◇◇3.11あの時の風景(宮城編)◇◇◇◇ 『東日本大震災を体験して』    宮城県視覚障害者情報センター職員          伊藤 甲一  平成23年3月11日(金)午後2時46分、マグニチュード9の巨大地震発生その後の大津波。尊い多くの人命、築き上げられた貴重な財産が失われ、そして2年と半年が過ぎましたが、「人」「地域」により「あの日」のままの方も。というのが「今」の状況です。  当時を振り返りますと発生時、当センターには利用者1名、付添1名、奉仕員7名、職員6名の計15名(うち、視覚障害者2名)が在籍しておりました。  利用者の方は付添の方と1階の閲覧室にて読書をしており、奉仕員7名のうち3名は2階と3階の3重扉の録音室にて録音中、2名は2階の小部屋でデイジー図書の編集中、1名は2階で下調べ、1名は1階で録音機器の保守点検の奉仕活動に従事しており、職員はそれぞれの部署で業務中でした。  予測されていた「宮城県沖地震か?」とは言え、揺れが大きく、止む気配がありませんでした。通常は揺れが止まってから、次の行動をとるのですが、揺れがとまりません。一人で3階まで動き、屋外退去指示の声掛けをしていました。「停電」「廊下は波打ち」「防火扉はバタバタと」「機器の落下音」等々の中。録音室の3名は扉が閉ざされたまま「うずくまって」いました。  扉は3重でしたが開けることができたので、「半ば強引に」連れ出し、残りの方も含め全員一人のけが人もなく、建物外へ避難することができました。今思うと「ゾッ」とするものがありますが、あの場面では「あの判断しかない」と今も思っております。  「外」は「激しい雪降り」になりました。ラジオと携帯電話で災害状況は把握できたものの、個々の家族の様子は不明のまま、帰宅できる交通手段も不明でした。しかし、センターは暖房もなく、食料等の備蓄もありません。私と男性職員が残り帰宅指示を出しました。全員、無事に帰宅できたと知ったのは、かなり時が経ってからでした。この頃、あの時の指示は「あれで良かったのかどうか」と。でも、やむを得なかったかなと。  残った二人で施設の確認をしたところ、建物の倒壊は免れましたが、壁、床の無数のひび割れ、暖冷房用ボイラー設備の全壊そして図書ラックの倒壊により約4万巻のカセット図書が散乱、机上のパソコン等の落下等々を確認し、停電のため真っ暗そして余震も頻発している状態と県の担当課に報告しなければならないので県庁に向かいました。県庁は非常電源装置により明りがありましたので気持ちも安心しました。  しかし、写されているテレビの映像は非常に悲惨なものと多くの避難者が庁舎全体に溢れていました。  公共交通もすべて止まりましたので、その夜は見慣れた風景も一変した中を約1時間40分ほど掛け帰りましたが、我が家も非常に悲惨な光景でした。  震災のあった日は金曜日でしたので、月曜日から復旧業務を行ったのですが、多くの奉仕員さんの手を借りることができ4月1日には利用者の方に貸し出し業務を再開することができました。建物等の災害復旧工事も平成24年6月には終了し、現在は、ほぼ震災前の状況で業務を行っております。改めて「絆」を強く思い感謝申し上げます。  次に私個人について書かせて頂きます。私は、今回の災害で報道も多くなされた南三陸町志津川の出身です。昭和35年のチリ地震津波を10歳で経験しております。地球の裏側で発生した地震が、津波を約22時間かけ日本に上陸させ日本全体で死者・不明142人、家屋全壊・半壊3,500戸余が被害を受ける惨事となりました。その日発せられた津波警報は津波襲来2時間後、午前5時20分ということでした。  しかし、我が家では避難準備のため親父、お袋は残りましたが、兄弟3人は4時頃には高台の高校の校庭に避難した記憶があります。避難出来た要因は、隣が車の修理工場で、日々早朝から仕事で賑やかなのですが、その日は更に賑やかだったので、お袋が様子を見に外へ出ようとしたら庭に「ヒタヒタ」と海水が来ていたのです。警報のサイレンが鳴らされた時は、記録によると最大6.3メートルの津波が襲来し、住んでいた家屋も全壊ではありませんが、屋根と柱だけが残り、隣の修理工場から流失した車両が数代入っていたという記憶があります。幸いにも家族は全員助かりましたが、両親は荷物とともに流され、約1日行方不明でした。夜中に避難所で再会することができました。  志津川では41人の方が亡くなられ、親父の妹も忘れ物を取りに戻り犠牲になってしまいました。  私も、海の水が殆ど無くなるという様子を見るのは初めてだったので、避難場所から下に降り河口の近くで見ていて「壁のような真っ黒い波」に追われた経験をしました。  この津波を契機に、1階建ての住居に2階を増築し東日本大震災発生まで住んでいました。  なお、我々が避難した高台も東日本大震災の大津波では完全にのみ込まれてしまったとのことです。  私の災害経験はこの後も続きます。  昭和53年6月12日「宮城県沖地震」も経験しました。この時は、旧宮城県庁舎西3階において勤務中でした。ロッカーや机が移動し、小ロッカーの落下により机が二つに割れたところを目撃しました。この震災後、県庁ではロッカーの積み重ねは禁止となりました。  またまた東日本大震災1年前の平成22年2月28日チリ地震津波を志津川で経験してしまいました。この日は日曜日で帰省していました。お袋が1年ほど前から介護老人保健施設に入所していたので週末は施設訪問を行っており、この日も9時頃、施設に到着し会話をしていたところ9時30分頃サイレンが鳴り「大津波警報」が発令されたので、急いで自宅に戻り、2階に位牌やテレビ等の荷物を避難させ仙台に帰って来ました。翌日、地元新聞「河北新報」を見たところ、私が常に自転車でお袋の施設に行くために利用する道路と牡蠣加工用施設の一部が水没している写真が掲載されておりました。  この津波では人的被害はありませんでしたが、建物浸水被害や養殖施設被害が発生しました。  この1年後、勤務中に未曾有の大災害・東日本大震災に遭いました。職場復旧、交通手段確保困難等々により志津川の悲惨な状況、義弟の行方不明は刻々入って来ましたが、帰省出来たのは約3週間後でした。義弟捜索に向かっている途中で発見の報が入り対面することが出来ました。昭和35年の津波を経験し2階を増築した家屋は跡かたもなく消えていました。  東日本大震災後、日本盲人福祉委員会が「災害時の視覚障害者支援体制マニュアル」「災害時の視覚障害者支援者マニュアル」日本盲人会連合が「視覚障害者のための防災・避難マニュアル」日本盲人社会福祉施設協議会情報サービス部会が「みんなで知っ得[助かる][助ける]」(増補版)を発行致しました。「みんなで知っ得[助かる][助ける]」(初版)は、平成22年9月1日に「毎年のように起こる災害に対し視覚障害者自身が災害から「助かる」ためには、支援者として視覚障害者を災害から「助ける」ためにはどのような行動をとらなくてはならないかを知ってもらう」ことを目的として平成7年、阪神淡路大地震を教訓に発刊されました。当センターにおいても99%の確率予測がされていた宮城県沖地震への備えのため利用者の方に、毎月提供している情報誌「視覚情報センターだより」でこの冊子の内容をシリーズで提供しておりましたが、掲載4ヶ月後に大災害に遭遇してしまいました。冒頭にも述べましたが当情報誌も3カ月休刊せざる得ない状況でしたが、5月号から継続して掲載し平成24年4月号で掲載を終了致しました。災害は何時起きるか分かりません。改めて東日本大震災を教訓とした日本盲人会連合発行のマニュアルを利用し平成24年7月号から平成25年5月号までシリーズで掲載し啓発を行って来ました。マニュアルは利用されなければ意味がありません。  また、この大震災を記憶するため写真集を始めとして多くの著作物が発刊され当センターも含め多くの点字図書館等で点訳、音訳化しております。ご利用願います。当センターにおきましても内陸部に住んでいる利用者の方から「津波」について知りたいということで河北新報社発行の写真集「3・11大震災 巨大津波が襲った」をデイジーで製作した図書もあります。  最後に県内の団体で発刊された冊子から引用させて頂き終わります。「宮城県沖地震から35年、日本海中部地震から30年、阪神・淡路大震災から18年、また、岩手・宮城内陸地震から5年、東日本大震災から2年が過ぎようとしています。私たちにとって、惨事の記憶は続いており、私たちの置かれている現実は、今も、災害リスクが予想されており、不安を完全に払拭することはできません。また、特に、南海トラフや首都直下型などの被害想定が、衝撃的な内容となっており、他の地域の仲間のことも心配です。」 =体験ルポ=  盲人たちの「3.11」 闇の中あの大津波からどう逃げたのか・・・  この文は本人から許可を頂き、アエラから抜粋し編集しました。  金子たかし  光も色もない世界で、「津波の恐怖」と、どう対峙したのか。 「壊滅した故郷の街」を頭の中にどう描くのか。  宮城県東松島市の金子たかしさん(65)はそのとき、自宅2階にあるデスクトップのパソコンの前に座っていた。金子さんのパソコンには、盲人用の音声ソフトが組み込まれている。パソコンが発する合成音声で、視覚障害者団体などからのメールの文面をチェックしていた。 波に揉まれながらも白杖離さず  最初に、小さな揺れを感じた。「これで終わりかな」。少し安心した途端、激震が来た。外に逃げなければ。階段の手すりを伝って1階に下りた。盲人に欠かせない白杖を手探でさがした。あれほどの激しい揺れでも家屋に大きな影響はなかったのか、白杖はいつも置いている玄関わきにあった。それを折りたたみ、右手に持った。そこに不気味な「音」が迫ってきた。  「ゴゴゴゴ……」と重機が近づくような音がした。同時に海岸に面する南側の窓ガラスがガチャーンと割れる音が聞こえた。  「津波だ!」 とっさにそう思った。  一人暮らしの自宅は石巻湾の海岸から直線距離で300メートルほどの場所にあった。  「シュー」という音がした。と思うと、一気に海水が胸元までくるのがわかった。体が海水ごと山側の方向に押し流された。無意識に呼吸をとめた。立ち泳ぎのような姿勢のまま濁流に身を任せた。水中で音は聞こえず、ただ、車のガソリンなのか、油のにおいが強かった。どのくらいたっただろうか、気がつくと、海水が引いていた。両手両足で四方を確認すると、頭の上にトタンのようなものがあった。手で少しずつかきわけていった。  修羅場の中でも、なぜか白杖を最後まで握っていた。それを伸ばし、周りを探った。障害物は何もなかった。それで残骸の一番上に出られたのがわかった。  ずぶぬれのまま残骸の上に腰掛け、じっとして体力の消耗を防いだ。やがて聞き覚えのある女性の声がした。  白杖で残骸をがんがんたたき、「助けてください!」と叫び続けた。  女性は近所の民生委員だった。彼女に助けられ、近くにあったもともと空き家の一軒家に避難した。「とりあえず今夜はここで」と彼女に手を引かれて階段を上がった。空き家の1階部分は津波にやられていたが、2階はかろうじて無事だという。夜はこの2階で一人で寝た。幸い布団があり、下着一枚で毛布にくるまった。目が見えないことに加え、勝手もわからない家で、ただただ、じっとしているしかなかった。水も食料もない。小用を足すときは、手探りで窓を開けて外の階下へ放った。熟睡できず、うつらうつらした。余震の度に家全体がギシギシ音を立てた。それ以外は、物音一つしない静かな夜だった。  翌朝、「金子さん、いますかー」という声が、外から聞こえてきた。民生委員の女性が自衛隊に連絡してくれていた。救出後、避難先で医師に診察してもらうと、肋骨が4本折れていた。激流にのまれていた時、残骸にぶつかり、強く圧迫された。その際に骨折したらしい。  3月下旬に姉がいる栗原市のアパートに引っ越した。    30代後半に緑内障を発症し、徐々に視力をなくし7年前に完全に失明した。  自宅のあった野蒜地区は、800人を超す死者が出た東松島市の中でも津波被害が最も大きかった地域だ。地区では300人を超す遺体が見つかっている。金子さんの知り合いも隣人を含め10人以上が亡くなった。そうした中で、目の見えない金子さんが助かったのはなぜか。  「失明する前、趣味でスキューバダイビングをしていました。その時に、水の中では何をしても無駄だから、水に逆らわず無駄な動きだけはするなと教わりました。そうした経験がいきたのかもしれません」 『どんなときも前を向いて』 立身憲一  仙台に住んでから一年半が過ぎ、そして、あの3.11から2年以上が過ぎました。長かったような、いや、あっという間に過ぎ去ってきたかもしれません。確かに失ったものは大きい、しかし、厳しい言い方かもしれませんが、それを考えてもどうなるものでもないだろう・・・。そうしていつまでも悔やんでいるのなら、生き延びた自分がもっと強く前を向いて生き延びてみろ・・・そんなふうに自分に言い聞かせながら日々過ごしているように思います。  一昨年4か月ほど横浜の叔母のところでお世話になっていました。横浜での生活は、着いた翌日には横浜視障協の理事さんと会うことができ、点字版や白杖もいただき、また、いろいろとアドバイスをしていただきました。そして次の日には磯子視障協の会長さんと会うことができました。その話の中で、「実はうちで障害者の通所施設の事業をしているので遊びに来てみませんか」といわれ、早速、見学を兼ねて行ってみました。その施設は、身体、知的、精神障害者が共に軽作業やさまざまな活動をしているところでした。私もその施設におせわになることになり、月曜日から金曜日まで通所し、ときにはバスや電車でいろいろなところにいきました。そのたびに思ったことは、さまざまな障害者の中で一緒に行動するうちに、その明るさと力強さを感じさせられました。  あるときその施設で防災訓練がありました。地域の皆さんも参加してのものです。「避難訓練ってどこいくの」という声もありましたが、なんとその場所は高台、しかも不規則な階段、目的地は途中の小さな公園とはいえ高さは約25メートル。この階段は上まで登りきると200段ほどあり、ときには階段を利用してどこからか走ってきては上り下り数回、走り去ってゆく人がいるそうです。その人は現役時代のプロボクサー内藤選手とのことでした。さあいよいよ避難訓練開始。ボランティアの皆さんも真剣そのものでした。ほとんどの人が高台に到着し、最後の人を待つだけとなりました。その人は30代前半、常には車いす生活、しかし義足をつけ肩をかりながら懸命に上ってきます。到着した時には拍手が起こりなぜか自分は涙があふれてきました。  そんな日々を過ごしているうちに自分はこのまま横浜に住むのかなあという思いもちらほらおもいはじめていました。しかし、やはり自分の中には宮城、そして60年も過ごしてきた、あの生まれ故郷に未練がましく思いがあるのも当然のようでした。昨年6月の半ばごろ仙台で部屋が空くんだけどどうするという電話があり、話の中でいろいろな手続きはどうなんだろうとか、宮城に戻っていれば何とかなるだろう、そんな感じで結局、全てをお願いし、7月の末には横浜から仙台に移り、そして8月1日からいよいよ仙台での生活が始まりました。まずは荷物の整理から役所での手続きそして近隣の状況などなど視障協はもとより盲導犬訓練センター、さらにはアイサポート仙台の皆さんには大変お世話になり、それが縁でさまざまな活動に参加させていただいております。 少し大げさな言い方になりますが、仙台の東西南北をウォーキングしながら語り合い探索して、その歴史の奥の深さを堪能しております。いつの日か、ゆっくりでいいから生まれ育ったあのふるさとの面影を心の底から笑顔で話すことができたら・・・とそんな夢物語を描いている今日この頃です。 『平穏な日々の大切さを実感』 塩竃市  佐藤弘子  平成23年3月11日。  私は普段と変わりなく、冷え込みの厳しい朝を迎えました。その日は金曜日で、我が家ではホームヘルパーの訪問日だったのです。まずは、家事全般のサポートを受け、その後、近くのスーパーで4日分ほどの食料品を中心とした買い物も済ませました。そして、茶の間でのんびりしていた午後2時46分、それまで経験したことのないあの激しい地震に襲われたのです。  観音開きの食器戸棚からは瀬戸物が次々と床に散乱し、主人がパソコンをしていた奥の部屋では、本棚から全ての点字本が、部屋中に飛び散りました。 それ以外にも、棚の上のあちこちから荷物が落下して、それこそ足の踏み場もない有様となりました。地震による激しい揺れは、4分ほど続いたでしょうか? でも私にはその揺れが、5分も10分も続いているように感じられました。 「助けてぇぇーっ!!」とか「やめてぇぇーっ!!」などと夢中で叫んでも、家の中をメチャメチャにしながら長い間揺れ続けた地震でした。  揺れが収まった後、私はブルブル震えながら電話のそばへ行きました。ヘルパーステーション・親戚宅・友人宅など思いつくままにダイヤルしましたが、 すでに電話はどこにも通じませんでした。塩竃市の防災無線からは「ライフラインがストップするので、とりあえず水を確保しておくように」という放送が、繰り返し聞こえます。それを聴いて私は、風呂掃除を済ませた湯船にまだ水を貯めていなかったことを思い出しました。瀬戸物やガラスの破片が山のように積み重なっている廊下を、私は手探り足探りでどうにか風呂場に辿り着いたのです。すぐに水道の蛇口をひねりましたが、蛇口からはすでに、一滴の水も出ては来ませんでした。  このような状況に見舞われたら、私たち全盲夫婦にはどうすることも出来ません。主人は、点字本の大群に押しつぶされそうな格好で奥の部屋から出られないし、私は電話も水も使えない台所でただ呆然とするばかりでした。そのまま二人は別々の部屋でろくに会話もしないまま、4時間あまりを過ごしたのでした。夜も7時を回ると冷え込みは更に厳しく、外では雪が降っているようです。主人と私だけではあちこち動き回ることも叶わず、部屋がどのように乱れているのかが確認できません。このまま布団も敷けずに、眠れない一夜を送ることになるのかしら?明日は誰か来てくれるのかしらなど、そんな思いが頭の中をグルグル回っていた数時間でした。  夜の7時半を過ぎた頃でしょうか?「佐藤さん、大丈夫?ヘルパーだよ!」と言いながら、玄関のドアをドンドンと叩く音がしました。ヘルパーステーションの所長とケアマネージャーが、二人で我が家に来てくださったのです。そして、家中に散乱している残骸の中から、主人と私を外に連れ出してくれました。私ども夫婦は身の回り品もろくに準備できず、着の身着のまま(きのみきのまま)でケアマネージャーの車に乗り込んだのでした。塩釜にも4メートルを超す津波が押し寄せたこと、死者や行方不明者が続出していること、大変な交通渋滞で、市内は混乱していることなど、車の中で災害発生後の多くの情報を教えていただきました。「何百人も避難している小学校や体育館よりは、ゆっくりしてもらえるかも…」というお二人の相談がまとまり、主人と私は塩竃市の社会福祉協議会が運営している老人施設に、しばらくお世話になることにしました。その施設はショートステイとデイサービスを兼ね備えているところでした。収容人数は10人程度という「小規模複合施設」なのだそうです。  「まつぼっくり」という老人施設に到着してから食べた菓子パンとミカンとバナナの味は、今も忘れられません。「もう大丈夫だよ」と優しく声をかけてくださる職員さんたちの言葉からも、温かさが伝わる思いでした。その日から2週間ほど、私たち夫婦は認知症のお年寄り10数名と寝食を共にすることになったのです。  5分も経たないのに時計ばかり気にして、職員さんに今の時間を何度も尋ねるお爺さんがおりました。そうかと思えば、夜も昼もひたすら泣いてばかりいるお婆さんもおりました。初めて出会った心の病を抱えたお年寄りとの生活に、当初は私もかなり戸惑いを覚えました。それでもその後、その戸惑いを取り払ってくれたのは、私たち避難者を親身になって明るくサポートしてくださる職員の皆さんでした。ガスと電気が使えないので、石油ストーブが大活躍です。 必要最小限の水は、男性の職員さんがポリタンクを担ぎ、どこからか毎日調達してきてくださいます。食器が洗えないので、食事の際には紙コップやアルミ皿にご飯と味噌汁とおかずが盛りつけてありました。職員の皆さんは石油ストーブを駆使して、いつも私たちに暖かい食事を提供してくださいました。この配慮にも、ほんとに頭が下がります。  私たちが避難所暮らしをしている間に、ホームヘルパーの手配で我が家では「災害ボランティア」の手助けを頂きました。おかげさまで、足の踏み場もなくなっていた我が家はきれいに掃除され、私たちの帰宅を待っていてくれたのです。それでも、2週間後に我が家に戻った私たちは、その後も何かと不自由な生活を強いられました。近所に給水車が来ても、全盲同士で勘の悪い私たちなので水がもらえず、何度も落ち込みました。それでも、そのたびに同じ町内会のどなたかが、水を差し入れしてくださったのです。あまり水を使わないで済むようにと、米をといできてくださったおばさんもおられました。ご自宅で作ったカレーライスを、お裾分けしてくださったかたもおられました。日頃はそれほどお付き合いもなかったにもかかわらず、近所の皆さんの心配りに涙がこぼれました。  あの震災から27日後の4月7日に襲った地震で、我が家ではついに、点字本を並べてあったスチール製の本棚までメチャメチャに壊れてしまったのです。そこで私たちは、趣味で買い集めていたカラオケの歌詞集や料理のレシピ本など、100冊にも及ぼうかという点字本を、本棚ごと処分してしまいました。これらの本を処分せざるを得なかったことが、私どもにとっては震災で被った一番の被害だったのかもしれません。  あの日から、2年半が過ぎようとしております。私なりに防災用品の準備を進めながら、我が家にはとりあえず平穏な日常が戻りつつあります。津波からの被害を免れたのは不幸中の幸いでしたが、あの恐ろしい体験を通して、平穏に過ごせる日常生活がどれほど大切なことなのかを、改めて日々実感している私です。 【実行委員会の記録】 5月24日 第1回語り部の会 釜石市         開催地:コミュニティー大ホール         参加者:花巻市立南城中学校1年93名 5月25日 情報誌編集会議 第1回          開催地:仙台市福祉プラザ 6月 5日 情報誌編集会議 第2回          開催地:仙台市福祉プラザ 7月 6日 防災研修会          開催地宮城県立視覚支援学校会議室         参加者:東北各地より62名。   同日  第6回プロジェクト実行委員会   同日  第1回被災視覚障害者心のケアと 語り部事業 委員会 7月14日 第2回語り部の会 名古屋 7月15日 第3回語り部の会 長野県 7月26日27日  語り部育成研修会          開催地:岩手県・宮城県・福島県         参加者:23名 7月27日 第7回プロジェクト実行委員会          開催地:仙台市   語り部研修会の様子 語り部研修会の様子 『平成25年度防災研修会報告』 仙台市視覚障害者福祉協会 会 長  高橋秀信  去る7月6日(土)13時より視覚支援学校会議室において行いました。参加者は、日盲連事務局・東北の被災した視覚障害者団体と付き添い者も含めて62名。日盲連・東盲連の代表の挨拶の後、提出した要望書にかかわる経過報告と今後の課題について報告がなされた。  内容については以下のような概要であった。 1 要望書提出の総括  私たち被災視覚障害者団体は、被災地各自治体首長に対し要望書を提出した。これにより、東日本大震災のみならず、今後発生が予想される大災害・天災への理解が深められた。  この度の要望書の特徴は、私たち視覚障害者だけでなく、広く障害者の視点にたった要望・提言がなされたことである。また、広く社会に受け入れられる内容であった。特に、報道機関に対して記者会見を開催する等、当事者団体の考え方と行政施策とのミスマッチが明確となり、当面する課題等を論議する良い機会となった。これは大きな成果である。これからの私たちの活動・運動が行政施策をより良いものとするための指針となるのではと期待している。 2 成果と経過  (1)要望書提出日  平成25年4月11日仙台市、22日宮城県、25日岩手県、5月14日福島県にそれぞれ提出。  (2)経過  要望書の概要は、安否確認4項目、防災避難10項目、仮設住宅および復興住宅支援4項目、公共交通機関・視覚障害者の移動4項目、雇用就労3項目、地域生活支援9項目、計34項目である。  (3)担当官との懇談における追加要望    仙台市:避難所に視覚障害者が必要とする白杖・ルーペ等を常備。    福島県:視覚障害者生活支援センター職員の増員。    岩手県:岩手グラフの情報誌に会の情報の掲載。    宮城県:視覚障害者情報センターの建て替え。  また、視覚障害者の被災死亡者数の開示を求めた結果、福島県15人、宮城県65人、岩手県35人、仙台市4人の報告があり、改めて大震災・大津波の大きさを痛感した。 3 今後の課題  (1)平成25年6月17日に「改正災害対策基本法」と「大規模災害復興法」の関連二法案が成立し、災害時要援護者名簿の作成が市町村に義務づけられた。しかし、住居地での町内会単位等での避難誘導システムの構築、要援護者名簿がより実効性のあるものとなっていくか、進捗状況を注視しながら、課題を探らなければならない。  (2)提出した要望書が行政施策にどういかされ、進捗して行くか、引き続き状況を見守り、必要に応じて提言を加える必要がある。  また、各自治体からの文書回答を精査し、第2次要望書の提出も検討する必要がある。  (3)福島県における放射能被害は長期にわたるものであり、私たちが今後どう支援していくかが重要である。   また、この会には日盲連事務局の働きかけにより、復興庁から1名、東京電力から2名の参加者があり、懇談が行われた。その中で浮かび上がってきたことは、視覚障害者の現状を理解されていないことからくる、情報保障が行われていないこと。特に、書類等の代筆が全くされていないこと。説明が不十分であること。  等であった。この点については復興庁・東京電力に対し、具体的に今後要望を出していくことになるであろう。改めてこの会を通して感じたことは、福島においてはまだまだ避難生活が続いていること、原発が廃炉になるまでは30年以上かかること。そして、被災者は高齢の方が多く、ほとんどの方は、自宅には戻れないであろうということ。現在でも家族と離れ離れの生活が続いていることである。これから、この現状に対しどんな支援が必要なのか、そして、二度とこんな被害を出さないために何が必要なのか、我々、視覚障害者だけでなく、国民全体として考えていかなければならない。 『語り部プロジェクト活動がスタート』 社会福祉法人岩手県視覚障害者福祉協会 理事長  及川清隆  いよいよ5月24日から東日本大震災の体験を語り継ぐ語り部プロジェクト活動が、岩手県釜石市を皮切りにスタートしました。奇しくもこの日は、67名の死者を出したチリ地震津波から53周年目の記念日にあたる日でした。防災、震災、大津波災害を考えるのに偶然良い日だったのです。  「釜石市の中村さんに語り部をお願いしたい」と電話依頼があったのは、宮沢賢治の古里でもある岩手県花巻市立南城中学校1学年93名の学校からの依頼でした。  依頼の希望は「午前に語り部の話をお聞きしたい。午後に中村さんが避難した避難路を一緒に歩いて体験したい。そのあと中村さんが避難した千寿院という第一避難所で、震災大津波を撮影した映像を見て、住職さんからの講話をお聞きしたい」というのでした。  語り部の会場は、釜石市小佐野(こさの)コミュニティー会館3階大ホールで開催しました。  午前11時過ぎ、中村さんが語りはじめました。その内容はこの創刊号に中村さんが投稿掲載されています。少し触れますと、話始めて30分ぐらい過ぎたでしょうか。大津波に後ろから追いかけられた死の恐怖の、体験が語られました。  「治療院からかつての避難場所まで直線にして200メートルから300メートルぐらいあるのですがね、4人が連結して逃げましたが後ろから津波が迫っているのが分かりました。高台にいた人たちからは、走れ・急げ・早くしろと絶叫の声が聞こえてきました。」と語った。会場は水を打ったように静まり返っていました。  私は、その不安と恐怖の思いが本人から直接聞くことがこんなにリアルに強く感じるとは考えていませんでした。本当に怖かったのだろうと想像にあまりあります。最後に語ったのは「皆さんの周囲でどうしても一人で避難できない人がいます。お年寄りや障害者に普段から気にとめていただき、避難を手伝って上げて下さい。お願いします。」と中村さんの日ごろ地域に願っていることを話して一時間余りの語りが終わりました。  今回の語り部活動の特色は、語り部の中村さん自身の避難路を共に歩く体験と、大津波の襲来する生の映像や千寿院住職の講話をお聞きすることでした。そこで、前後するかも知れませんが少し触れておきたいと思います。午後1時半過ぎだったと思いますが、千寿院住職さんの講和がはじまりました。  「少し辛いかも知れませんし、見るのが怖くなるかもしれませんが、釜石テレビのカメラマンが押し寄せる津波を目線で撮影したものと、高台から町が津波で流され破壊されていく様子をここに避難してきた市民が撮影したものがありますので、15分ぐらい見て下さい。」と言ってビデオが回りはじめました。私には映し出される画像は分かりませんでしたが、画像と一緒に録音されたザザーっという音や、ゴーゴーという津波の音に混じって「早く逃げろ、あー駄目だ、早く早く」などという周囲に大津波が迫ってくる死への恐怖が音声で伝わってきました。一方生徒さんは「あ」という声にもならない声、「あー」とまたもや声がどよめくのが聞こえてきました。生徒さん達には、言葉とは異なって画像は相当の衝撃を感じたのではないかと想像して聞いていました。  住職さんから「いかがでしたか?」と講話が続きました。  「釜石の奇跡を話しましょう。校庭で先生が点呼を取っていたら『先生こんなことをしていたら危ないよ』と言って逃げたという話です。今回の大津波は3メートルの津波が来るという警報をあまく見たのです。本当は地震から30分後に10.6メートルの大津波が来たのです。逃げる時は逃げる、こだわりやあまい考えをしない、迷わず逃げる、誰かを助けようとして戻った人はほとんど助かりませんでした。地震が来たら津波が来る。家族を捨てても逃げること。家族の誰かが残れば何かを伝えることができます。それで亡くなった方も分かってくれます。皆さん、とにかく命を大事にしましょう」と言い、講話が終わりました。  読者の皆さんはお気づきになったと思いますが、語り部の中村さんが話された「周囲のお年寄りや障害者の避難を助けて上げてください」と言ったことと、住職さんが話された「家族を捨てても逃げなさい」、このお二人のお話をどう受け止められたでしょうか?  終わりに、生徒さん93名は、中村さんが話し終わった後と、住職さんの講話が終わった後に感謝と鎮魂の歌として、ゆずの「栄光の掛け橋」を合唱してくれました。  中村さんが話される前に合唱の練習がありましたが、声はやや元気がなくて少しハーモニーが乱れていたように聞いていました。  しかし、中村さんの話が終わった後は練習とは一変して声も大きくそれぞれのパートの調和が取れていてすばらしい合唱で感動しました。私はその合唱を聞いて「この93名の若人に中村さんや住職さんの心は伝わった」と確信して釜石市を後にすることができたことをお伝えして結びといたします。 『震災語り部をお招きして』 名古屋市視覚障害者協会 会長 橋井 正喜  うだるような猛暑のなか、開催された日盲連東海地区夏期研究集会に、岩手県大槌町より震災語り部として、藤原美幸氏にお越しいただきました。  東日本大震災から2年数ヶ月が過ぎ、少しずつではありますが、私たちの脳裏からあの大惨事が消え去ろうとしています。130余名の参加者は藤原さんの話を待ち望んでいました。  彼女は静かな口調で家族構成から話し始めました。震災発災事から避難途中での家族との再会、避難所の寺院から裏山を次ぎへの避難場所、そこから見える街の火災、一つのおにぎりを6人で一口ずつ分け合ったこと。彼女の家族は運がよく親戚の家に避難し、数日後には被災者らのマッサージのボランティアを始めたと言われました。  被災された当事者同士、身体をマッサージでゆるめていただいたことで、彼女に胸の苦しみも吐露されたようです。命からがら逃げる途中で一人一人、心の奥に閉じ込めておきたいことを彼女の手の温もりが伝わり自然に話されたのでしょう。  発災時は、偶然が重なり、命が助かった人、亡くなられた人それぞれの3.11があり、彼女も勤務先から自宅に残るご主人や娘さんたちを心配し戻る途中、偶然に出会い、難を逃れたようです。この偶然がなければ津波が押し寄せる自宅に戻ろうとした彼女は名古屋には来ていなかったことでしょう。  私たち視覚障害者は安全、安心した街づくりを願い、より良い生活を求めて暮らしています。日頃から隣人や地域とのつながりを大切にすることにより緊密なお付き合いが必要だと気づかされた時間でした。  震災語り部に登録された方々が、命の大切さ、日頃からの防災知識の大切さ、そしてこの度の有様を語り続けていただきたいと節に願っています。 <今後の語り部事業> 10月12日(土)    開催地:秋田県心身障害者福祉センター 10月14日(月・祝日)    開催地:山形県身体障害者保養所 東紅苑 10月20日(日)    開催地:岩手県民情報交流センター 11月10日(日)    開催地:埼玉県障害者交流センター 11月24日(日)    開催地:新潟市総合福祉会館 11月24日(日)    開催地:水戸市三の丸ホテル <編集後記>  東日本大震災から2年半が過ぎました。宮城県内も少しずつ復興していることを感じられるようになってきましたが、瓦礫の撤去率は宮城県で70%以上、岩手で60%以上、福島は原発の関係で40%を割っているそうです。宮城と岩手は今年度中に瓦礫の撤去は終わる見込みですが、福島は除線処理の関係から、めどさえたっていないようです。  現在でも20万人以上の方々が仮設住宅や借り上げ住宅に住み、不自由な生活をしいられています。復興住宅の着工が予定より遅れているためですが、そんな現状の中で被災者のストレスによる健康被害が心配されています。我々の仲間の中にも仮説や借り上げ住宅に住み窮屈な、そして、家族を失ったり、離れ離れとなり、さびしい思いをされている方がおります。  第2号では宮城県の状況を中心に編集しました。地震と津波の恐怖感や被災者の不安が伝わってくるのではと思います。そんな中でも前向きに生きていこうとする思いが感じられるのではないでしょうか。  私は協力してくれた方々のおかげで避難所暮らしは免れましたが、聞くところによると視覚障害者の避難所での暮らしは、まさに情報障害者だったそうです。情報は掲示板や紙では配られるが読んでくれる人がいない、食料の配布などで行列を作っていても、それがなんのための行列なのか、どこに並ぶのかもわからない。トイレの場所や使い方がわからない等、困った経験をした人たちがいます。特に、中途半端に見える弱視の人たちは障害者とはみられず、避難所での手伝いもできず、白い目で見られ、つらい思いをしたと聞きます。  また、近頃出た報告によると障害者の被害は一般人に比べて2倍ともいわれています。我々障害者は自ら行動し、次の震災時には障害者の被害を最小限にくい止めなければなりません。被災した方で障害者協会に入っていない方もたくさんいらっしゃいます。そんな方々も含めて一人でも多くの命を救い、早く和やかな日常が遅れるように、取り組んでいきましょう。それが我々に今できることではないでしょうか。  日本は、各地で地震・津波・台風・洪水・火山爆発等、たくさんの災害が予想されています。各自で水や食料を備蓄し、地域の方々とのコミュニケーションを常日頃から図っておくことが重要です。  第3号では、いまだ原発事故による汚染水問題解決をみていない福島県の様子を中心に編集する予定です。 語り継ぐ未来への友歩動 =震災からのメッセージ= 第2号 発 行 日 2013年10月1日 発行責任者 社会福祉法人日本盲人会連合会長 竹下義樹        〒169−8664        東京都新宿区西早稲田2−18−2        電話03−3200−0011(代表) 編   集 東日本大震災視覚障害者 復興支援プロジェクト実行委員会