<凡 例> 1.この情報誌は東日本大震災で被災した視覚障害者のおかれた状況を、全国の視覚障害者と各自治体に啓発する目的で発行する。 2.人名・地名にはルビを付したが、他の漢字の読みは一般読みとする。 3.弱視者に配慮して18ポイントのフォントを使用している。 4.原稿は各筆者に了解をいただき編集しているが、できる限りその当時の状況や思いを伝えるため、文体等は必ずしも整ってはいない。 編集上、一般的な語法に揃えた箇所もある。 以上のことを了承いただきお読みください。 情報誌『語り継ぐ未来への友歩動(ゆうほどう)』に寄せて 社会福祉法人日本盲人会連合 会長 竹下 義樹(よしき)  東北盲人会連合が情報の発信と地域の発展を目指し、会員相互の交流を深めるため、この度、情報誌『語り継ぐ未来への友歩動(ゆうほどう)』を発刊する運びとなったことに敬意を表し、心からお祝い申し上げます。  情報は人間が生きていくために欠かすことのできない重要なものです。会員の声が地域に届くためにも、かけがえのない媒体となることでしょう。  東日本大震災が発生し、多くの視覚障害者が命を奪われ、あるいは自宅を失い被災生活を余儀なくされています。被災視覚障害者の避難所などでの生活は、視覚障害ゆえに多くの困難を抱えています。2011年3月11日の大震災の直後に、日本盲人福祉委員会及び日盲連が支援活動を開始する中で、組織の存在価値を改めて確かめ合うことができました。一人の声は尊重されなければならないとはいえ、往々にして無視されがちです。それゆえ、一人ひとりの声を束ね団体としての声にすることが必要であり、団体として社会に大きくアピールし、国や自治体によって要求が実現されることになります。情報誌は、そうした役割を担う重要な手段です。情報誌『語り継ぐ未来への友歩動(ゆうほどう)』発行が、今後の東盲連(とうもうれん)としての活動の充実と加盟各団体の組織強化に役立つことを願い、発刊のお祝いの言葉とします。 平成25年 6月15日 『発刊に当たって』 社会福祉法人日本盲人会連合 東北ブロック理事 及川清隆  東日本大震災からもう2年4ヶ月余りが過ぎています。私たちはこの震災が時の流れのまま忘れ去られてしまうのではないかと憂えております。そこで、全国の視覚障害者団体で構成している社会福祉法人日本盲人会連合(以下、日盲連と記す。)と、東北の視覚障害者団体で構成している東北盲人会連合(以下、東盲連(とうもうれん)と記す。)とで下記のような活動を展開して行くことといたしました。  この情報誌は、日盲連と東盲連とで連携して東日本大震災視覚障害者復興支援プロジェクト実行委員会(以下、実行委員会と記す。)を立ち上げ、これまでのいろいろな大災害を検証しながら、東日本大震災を中心とする視覚障害者の生の貴重な体験談や大災害のいろいろな情報を掲載して、皆さんとこれからの視覚障害者等、障害者の防災・減災の地域社会システムの構築のあり方について、共に考え、共に活動していきたいという目的で発刊するものです。  このような趣旨から、私たちは「大災害の体験を風化させることなく、未来永劫語り継ぎ、周囲の地域住民である友人と共に、活動に向けて共に歩み出しましょう」という思いで、情報誌の名称を『語り継ぐ未来への友歩動(ゆうほどう)』と致しました。  実行委員会で立てたこれからの活動の柱は、次の四つです。 1.東日本大震災被災各自治体首長への視覚障害者支援対応要望書の提出。 2.研修事業としての、語り部プロジェクト活動・視覚障害者当事者を対象とする災害及び防災研修の実施。 3.震災支援電話相談窓口の開設。 4.情報誌の発刊。  いずれも、皆様方からのお力がなければ、それぞれの活動の活性化は期待できませんので、今後の私たちの活動への一層のご支援とご協力を賜ります様、宜しくお願い申し上げます。  最後になりましたが、この情報誌の意義をご理解の上で執筆・編集・情報提供等協力していただいた団体・個人の皆様に、改めて感謝の意を表します。  これまで多くの皆様方から震災支援金等の物心両面にわたるご支援をいただきましたことに対しても、被災東北3県を代表し、この紙面をお借りして心からの感謝を申し上げますと共に、この情報誌が皆様にご愛読いただけますことを祈念いたしまして、情報誌『語り継ぐ未来への友歩動(ゆうほどう)』の発刊に当たってのご挨拶とさせていただきます。 ◇◇◇◇3.11あの時の風景(岩手編)◇◇◇◇ 『3.11被災地の視覚障害者を訪ねて』 視覚障害者支援ボランティア 三浦 輝夫(岩手)  あの悪夢の大災害直後から、私は、視覚障害者福祉協会の事務局に関わる妻を手伝って、沿岸地区在住の会員67名の皆さんの安否確認に取り組んだ。固定電話、携帯電話ともつながらない状態の中で頼りにできたのは、ラジオとインターネットであった。  IBC、NHK とも、連日安否確認情報を流し続けている。両局に視福協として、視覚障害者の安否情報の提供のお願いと、避難所等におられる視覚障害者への周囲の支援のお願いを繰り返し流していただいた。これを聴いて、数人が無事との情報が得られた。  一番頼りになったのは、インターネット。google の安否確認サイトは素晴らしいものだった。こちらで安否確認したい人の情報を提供しておくと、それを見た人が知っている情報を書き込んでくれる。私は、安否の知れない方々全員を登録し、情報の提供を待った。これによって安否確認ができた人は20人を下らない。中には東京からの情報提供もあり、情報化時代の横のつながりのすばらしさを実感した。  被災地の通信網の回復と共に、多くの会員が無事との情報が入って来るようになったのは、災害発生から3週間は経っていた。それでも、人づての情報が多く、確証の持てないものが多かった。そのうち、日盲連から災害見舞い規定に基づく見舞金の給付のため、個々の被災状況の調査が求められた。事務局での協議の結果、手分けして現地に入り、直接情報収集をすることが必至となった。 《宮古地区》  2011年4月14日、岩手視福協の及川理事長と共に私たち5名は、車2台に分乗し、宮古市、田老町、山田町地区に入った。まさに陽春の候、梅の花が開き、季節は確実に進んでいた。  宮古市の商店街は1階部分が津波により破壊されているものが多いが、建物は残っており、浸水箇所には消毒の石灰が散布されていた。停電が復旧していない箇所も多く、市内は所々信号機が停止していた。市内から45号線への分岐点には県外から派遣された警官が立って、手信号で車をさばいている。  私たちは45号線を南下し下閉伊郡(しもへいぐん)山田町(やまだまち)へと向かった。車が宮古市の郊外の磯鶏(そけい)地区に入ると風景が一変した。道路両脇の建物は破壊され、船や大きな丸太が家を押しつぶしている。宮古港藤原埠頭に近いホテル近江屋も1階部分はめちゃめちゃで、駐車場には海から運ばれてきた金属製のブイのようなものが横倒しになっていた。県立宮古商業高校のあたりは坂になるので無事だが、そこを過ぎて一路高浜地区、金浜地区と車を進めると、その惨状は言葉にならない。道路脇の防波堤を悠々越えた津波は、周辺の民家を全て 飲み込んでいた。  いうまでもなく私たちが目にしているのは、被災から1ヶ月後の風景である。道路がまず整備され、車だけは走れるようになっている。3月11日、ここを巨大な波が襲い、逃げまどう人も動物も、あらゆる建造物も飲み込んで去って行ったのだ。今、ストップモーションのかかった風景を目にするものですら震撼するのに、リアルタイムでそれを体験した人々の恐怖は想像を絶する。あちらこちらにつぶれてひっくり返る車は、トミカの模型ではなく、あの日まで生きていた車である。車や倒壊家屋にペンキで描かれた赤い×印が痛々しい(ご遺体発見の印と聞く)。  深い溜息と共に山田町(やまだまち)に入った。山田湾はいつものようにきらきら輝き、何事もなかったように美しい。しかし、車の窓を開けると、打ち上げられた様々な生物や、多分冷凍海産物の腐蝕した匂いが混じっているのだろう、思わず、むっとする匂いが流れ込んできた。私たちはまず、県立盲学校(現・盛岡視覚支援学校)同窓生2名が働く県立山田病院を訪問した。平地にある山田病院は1階部分がことごとく破壊され使い物にならない状態で、割れた窓もそのままの、まさに野戦病院さながらであった。その中で、K子さん、T雄さんの二人が働いておられた。お二人ともご自宅は無事で、もっぱら、病院の復旧に尽くしておられた。波が押し寄せる瞬間、患者さん達を2階以上に移動させ、何とか難を逃れたという。その後は、被災した1階部分の物品の運び出しや、清掃など、連日の体力勝負の復旧活動に従事し、今は2階で医療活動ができている。  病院周囲は新興住宅地で、新しい家が多く建ち並んでいたはずであるが、ほぼ全壊状態で、真新しい建材がむき出しでつぶれている家々が痛々しい。コンクリート製の電柱もほぼ全て同じ高さで折れ曲がって倒れており、津波の力の恐ろしさを伝えている。理事長は、電柱が折れるということが想像できないと、折れた電柱を実際に触られた。瓦礫の中に横たわる電柱の折れ曲がった部分は、内部のおびただしい鉄骨がむき出しになって、ヘアピンのように曲がっている。  お二人を激励し、治療院を営むWさん宅を見舞う。山田駅の近くから入るのだったと、入り口の道路を探すが、町並みが全て消え、広々と見渡せるのだが、目当ての駅がどれか見分けがつかない。行き過ぎて戻れば、あれが確かに駅だという建物が目に入るが、駅前のシンボルツリーは黒焦げに焼け、駅舎も真っ黒焦げで見る影もない。  Wさんの長崎地区は、若干高台に位置し、見たところ、津波の這い上がったほぼ限界に当たるようだ。Wさんのお父様の趣味の立派な盆栽は全て塩水を被ったというが、流されてはいなかった。そこから少し上がれば全く被害の様子は見られない。  Wさんは、お父様と盲導犬と共に元気でおられた。1階1M近くまで浸水し、しばらく2階に避難しておられたが、その後親戚を頼り、現在は自宅にもどっておられた。お父様が大工さんということもあり、既に改修の手が加えられ、1階に居住しておられた。津波に加え、火災により街のほとんどが消えた恐怖は筆舌に尽くしがたい。  Wさんのお父様の案内で、織笠(おりかさ)地区で家屋を流失されたOさんが避難しているという、ご実家に向かった。Oさんのお住まいのあたりは、壊滅していた。ご実家はかなりの高台で難を逃れていた。しかし、Oさんはそこにはおられず、大沢地区の方に引っ越しておられた。(後日、Oさんから伺えば、一度波にさらわれながら泳ぎ、返す波で陸に押し戻されて助かったという。)  この後山田町役場を訪問、行方不明のHさんの情報を求めたが、わからず仕舞いだった。今後の情報提供と、視覚障害者の皆さんへのご支援をお願いして、役場を出た。(残念ながらHさんは亡くなられていた。)  役場は高台で無事だが、そこに至る坂道の下まで家屋は被災していた。役場からは、薄黒くくすんだ空爆の跡のような風景が広がっている。  私たちは無言で祈りつつ、街を後にした。 《釜石地区》  翌15日、同じメンバーで、釜石、大槌(おおつち)地区を訪問した。  釜石支部長のNさんは、2階までの浸水により半壊状態で、釜石市身体障害者福祉センターに避難しておられた。避難生活の中、仲間の安否情報収集に努められ、多くの方々の安否確認ができている。ご自身は、パソコンやプレクストークなど情報収集機器に不自由しておられ、支援を求めておられる。視覚障害者の皆さんに共通した要望である。  釜石の街の被災状況は昨日見た宮古市、山田町とは違う。市街地の建物のほとんどが被災してめちゃめちゃなのだが、その状態の建物がほとんどその場に残っているのだ。波によって内部が破壊され尽くした建物が傾き、つぶれ、あるいは骨組みとしてその場に残っているものすごさというものを感じる。誰があの日この場で…と、臨場感の中で考えてしまう。スッカラカンと洗い去られた町並みとは違ったものすごさである。家の中に車がひっくり返っていたり、店の前に泥だらけの商品だったものが山積みになっていたり。「瓦礫と呼んでほしくない。これは私たちの思い出の品の山なのだ。」という被災者の言葉が、ここでは実感できる。ここでも、多くの家屋や車に赤い×印が残されている。  釜石は私がかつて3年勤めた地であり、何度となく飲み歩いた「呑んべえ横町」も皆消えてしまった。大渡橋(おおわたりばし)の袂の桜が何事もなかったようにほころび始めていた。  家を流失されたT子さんの避難する栗林小学校に向かう。途中の両石の町も消えていた。鵜住居(うのすまい)地区のかなり奥まで壊滅状態で、出るのは溜息ばかりである。栗林地区は鵜住居(うのすまい)から笛吹峠(ふえふきとうげ)に向かうかなり奥に位置するが、そのかなり奥まで 津波の爪痕は見て取れた。かろうじて家が残った被災者の方々は、家の中の泥の処理や、家財の運び出しに無言で取り組まれておられる様子が車窓から見える。中には、つぶれた家の前に呆然と立ちつくす姿も。  栗林小学校の体育館にT子さんは避難しておられた。狭い一人の居住空間に、T子さんの笑顔があった。日中のせいか、体育館の中にいる人は多くはないが、置かれている生活用品は隙間がなく、この避難所の朝晩の様子が思いやられる。T子さんは努めて気丈に、「きれいさっぱり持って行かれました」と笑った。その笑顔は救いだが、別れ際の握手と激励の言葉には涙がこぼれていた。  3時半頃だったが、体育館の舞台にボランティアの方が上がって、軽い体操を促していたが、立ち上がって応ずる人はまばらで、ある若者は、目もくれず、かったるそうに横になってゲーム機とにらめっこしていた。被災から1ヶ月、避難している方々の疲労感は覆いようもないようだ。  次に向かったのは大槌町の災害対策本部の置かれている中央公民館。大槌の町も火災に遭っており、町全体が黒ずんだ瓦礫の山となっている。痛々しく目に入るのは、大槌小学校だ。4階建てとおぼしき新しい校舎全体が黒く焦げ、3階までは確実に波をかぶったと見える。子どもたちの恐怖を思うと胸が痛む。  住居が流失したHさんご夫妻の避難先がわかり、寄ってみることに。町から大槌・川井線に入って少し行ったところの親戚宅にお二人はおられた。波に追われるように、娘さんの手引きで難を逃れたというお二人だった。  釜石地区居住者の安否確認は全て終わり、ほぼ全員の無事が確認された。 《陸前高田・大船渡地区》  陸前高田、大船渡地区には4月21日にお邪魔した。宮古市を訪れてから1週間、春もだいぶ進み、被災地からは桜の便りも既に届いている。  住田町(すみたちょう)を過ぎたあたりまでは、何事も感じられない春先のドライブであったが、陸前高田市の表示を見ると気が重くなった。 何度となく報じられたあの風景を見るのかと思うとどうしても気が重くなる。  車が市街地からかなり離れた竹駒地区に入ったとたん、風景は一変した。ここまで来るかよといった正直な思い。潮の香りも、波の音もほど遠いこの地区である。波は気仙川(けせんがわ)を遡って襲いかかっていた。田んぼの中の一本桜が濃いピンクの色の花を開き、泥をかぶった風景をより悲しくさせている。形をかろうじて残した町はずれのガソリンスタンドに「営業中」の看板が掲げられ、確かに営業していた。  高田1中にこちらの支部長、Kさんが避難しておられる。かなりの高台の中学校の校庭には、あふれんばかりの車。奥には自衛隊の車も止まっている。ちょうど、衣服の配給があるとかで、被災者の長蛇の列ができている。その中にはKさんはおられなかった。理事長が携帯で呼び出すと、Kさんは玄関に現れた。避難の時どこかにぶつかって傷めたという、左目の金属の眼帯が痛々しい。  K支部長にはこれまでも気仙町(けせんちょう)在住者の安否情報をかなり頂いている。しかし、いまだに行方の知れない方々が何人かいて、案じられる。  Kさんは、波に追われながら、あわやというところで助かったという。少し遅れた方々は波に呑まれた。また、呑まれかかったところを引っ張り上げられた方もおられたとか、生々しい状況が語られた。ご本人いわく。「見えなくてよかった。」この惨状を目で見ないだけでもよかったというのである。襲いかかる津波の音、人々の叫び声、それだけでも恐怖であったろう。見える人たちは、それにプラス、映像があった。  後日談であるが、「人生いろいろ」とはよく言ったもので、Kさんは九州からボランティアで来ておいでの女性とめでたくご結婚された。まさに「人生塞翁が馬」である。陸前高田の被災状況は何度もテレビでも流れているが、まさに、きれいさっぱり町は消えた。高田松原も1本の松を残して消えた。(この時期、一本松はまだ生きていたが、その後枯死が確実となり、国内外から寄せられた寄金により「震災復興モニュメント」として復活する。)  いち早く建てられた仮設住宅には既に居住が始まっている。校庭の奥の桜が美しく花開き、その下を迷彩服の自衛隊員が忙しく行き来している。立ち並ぶ仮設トイレには「使用禁止」の張り紙。屎尿(しにょう)処理施設も使えず、満杯になった糞尿を処理する術がないのだ。  町の高低差の多い大船渡の被災状況はまた独特のものがある。ここまでが被災地という線がはっきりしている。その高低の一線が、運命を分けている。  山田の町と同じような匂いを嗅ぎながら、市役所を訪問した。周囲は桜が二〜三分咲きで、春本番を告げている。  県道9号を綾里(りょうり)地区へ。その途中の赤崎地区の被災状況はこれまたすさまじい。形が残った家々も、2〜3Mの高さまでべっとりと重油が付着し、ここまで重油に浸かりましたという印を残している。打ち上げられた船、海に浮かぶ瓦屋根。広大な港湾の空き地となったところには被災した自動車が何百台と置かれ、自動車の墓場と化していた。幹の途中で大きく折れた桜の木が花を咲かせている。  数人の外国人が瓦礫の山に登って、この惨状を写真に写している。私もカメラは持っているが、とても写真にする気持ちにはなれない。  綾里地区も重油の匂いにまみれていた。対策本部に行くと女性職員が即座に、探していたYさんの家の場所を教えて下さり、無事であるという。早速行ってみると、Yさんの庭のすぐ下まで津波は押し寄せていて、石垣組みの庭には上がっていなかった。ご本人は不在ではあったが、安堵した。  再び大船渡市内にもどり、住居を流失し、治療院の1階に浸水があったAさんご夫妻を訪問。今まさに大工さんが入って、浸水した1階を修繕しているところだった。ご夫妻は避難所で、被災者にマッサージの奉仕をしておられた。治療院の再開にも意欲を示しておられるのが心強かった。惨状を目の当たりにして、これ以上自然と対決してはいけないと心から思った。自然への畏れと敬いを形にした住環境作りこそが今後追究されるべきだと。  また、この大災害の中で、障害者がどのような立場に置かれたか、これから実証されなければならないと思う。今は語れなくとも、被災した障害者の方々が、つらかったであろう自らの体験について口を開いていただける日を待ちたい。「災害弱者」とは障害者だけをいうのではない。一人ひとりの証言が、犠牲者を一人でも減らすことにつながるのである。 2011年4月24日記す(2013年5月一部加筆訂正) 体験ルポ 『震災体験記』 (福)岩手県視覚障害者福祉協会 釜石支部長 中村 亮(りょう)  私は釜石市で鍼灸治療院を営んでいる全盲の視覚障害者である。家族はやはり視覚に障害のある妹と二人きりである。3月11日午後2時46分、私は一人の患者の治療を終え、3時に予約してある患者の来院を待っていた。その間を利用してカルテに目を通し、メールチェックをしていた。突然腹の底に響くような地鳴りを感じた。瞬間「地震」と察した。2日前にM7.3の強い地震があったばかり。「またか」と思う間もなく本震がやってきた。揺れは非常に大きく、一昨日のものとは規模が全く違うことが直感的にわかった。火災を避けるため待合室の反射式ストーブの火を消し、沸いていたヤカンを手に揺れがおさまるのを待った。これまでに経験したこともないほどの、強くて、長い揺れだった。パソコンを置いてある机や、流し台、本棚などからガタンガタンと物が倒れる音がする。揺れが少し小さくなったところで、事務室、治療室の状況を確認しようとした。事務室は手洗い用の洗面台から水があふれて床は水浸し。治療室は二つの戸棚の蓋が開いて、中の治療道具類が床に散乱。カウンターや本棚のCDやカセットテープや本やカルテのほとんども同様。足の踏み場もない。重い本棚やカウンターが壁から5センチ以上も離れている。ふと電気のことが頭をよぎった。常に流れているはずの音楽が聞こえない。「停電だ・・・」。それに気づいた瞬間、不吉な予感を覚えた。「とんでもないことになる」。  このとき妹は買い物に出ていた。10分ほど離れたスーパーの中で地震に襲われた。 私は「もしかして、俺たちはこれで終わりかな・・・」と思った。「大津波」の文字が無意識に頭を覆っていたからだろう。そして「逃げることができるだろうか」という耐え難い不安。何から行動すべきかも思い浮かばずに、半ば呆然としているところに、隣の写真館の奥さんが飛び込んで来てくれた。「割れた物で怪我しないように靴を履いてて。」と告げて出て行った。「はたしてどの程度の津波が来るのだろうか。」と思いながら1階に下りると妹とお向いのおばさんの話声が聞こえた。何はともあれ無事に帰ってきてくれた。いつも持ち歩いているかばんにその辺のものを詰め込んで外に出た。そのとき「一緒に逃げるよ。」と言う女性の声。斜め向かいの家に住む女性だった。「その恰好じゃ寒いから、何か着なさい。」と言われて気づいた。私は白衣姿だった。あわててジャンパーを取りに中に戻り、ついでに携帯ラジオを探した。すぐに見つけて聴いてみた。丁度、釜石からの中継らしく「津波が釜石港の堤防を越えて、走行中のトラックを呑み込みました。」というアナウンサーの声に、胆をつぶした。海岸からは500メートルほどしかない。もはや一秒の猶予も許されない。遅すぎたかもしれないという不安が胸中に去来する。「あっ、表通りの側溝から水が溢れている。」と彼女が叫んだ。避難場所はかつての中学校のグランド。直線距離で200〜300メートル。自宅付近よりは少しは高い場所だ。女性の腕に私が手を添え、私のかばんに妹がつながり、妹の横に隣のおばさんが着くという4人編成。なだらかに続く坂道を黙々と避難場所に急いだ。前方の高いところからは「走れ、急げ。」「早くしろ。」などと絶叫している声が降ってくる。津波が迫っていることがわかる。避難場所近くまで来て後ろを振り向くと、50〜60メートルほど後方の交差点角の米屋さんに水が入ったことがわかった。車が流されて行った。一次指定避難場所の旧第1中学校のグランドまではもう一息。ほどなくグランドにたどり着くことができた。グランド内は避難者のざわめきがただよい、既に多数の人がいることが想像できた。津波は旧第1中学校の校舎のすぐ下で止まったらしい。避難場所では何度も大きな余震が感じられ、その度に怯えとも悲鳴ともつかないどよめきが方々から聞こえてくる。  かなり寒くなってきたので、2次避難場所である近くのお寺に 移動することになった。近いといっても、いつもの道は津波と瓦礫に覆われて通行不能。遠回りだが、いったん裏山を上ってお寺に降りるしか道はないという。地元の人の先導で、私たち4人を含む数十人の人たちの列がお寺を目指した。足腰の弱いお年寄りの中には「もう歩けない。」としゃがみこむ人もいる。山道を歩くこと約30分。お寺に着いたときは夕暮れだったようだ。お寺の前庭には、焚き火で暖をとっている人、町を見下ろしている人、寺に出入りする人たちなど大勢の人がいるにもかかわらず、案外ひっそりとしており、焚き火のパチパチという音が妙に印象的だった。早速私たちも自分の家の方向に目を向けた。瞬間、一緒に逃げてきた女性がつぶやいた。「アア、だめだ、すっかりつぶれている・・・。」しばらくは言葉もなく呆然と見つめているだけだった。一緒に逃げてきたもう一人のおばさんが「中村さんちは立っているよ。うちも立っている。屋根にバケツみたいなものが上がってる。ほとんどがつぶれたり流れたりしている。まっすぐ建ってる家なんてないよ。」と見たままを伝えてくれた。しばらくの間、何をどのように判断すればよいのかもわからないままに、眼下に広がる破壊された町を見つめるだけだった。  「とにかく中に入ろうか。」と促され、お寺の中に避難場所を移すことにした。お寺の中は避難者で立錐の余地もないほどだった。後で聞いた話では、500人以上の人がいたそうだ。私たち4人は、広い本堂は避けて20畳ほどの部屋が三つ並んでいるうちの端の和室に入らせてもらった。既に30人ほどの人がいたようだ。  皆渡された毛布一枚のほかは着の身着のまま。敷かれた布団に寝ている人もいる。津波に流されてお寺の下で救出された女性。近くの病院に通院中に津波に巻き込まれた人。幼い子を連れた女性・・・。 部屋の片隅に腰を下ろした私たちは、さっき見た町の様子を二人に何度も話してもらった。ラジオでは津波の被害状況をひっきりなしに流している。その中で今でも耳に残っているのは「被害甚大」とか「壊滅状態」というフレーズだ。  お寺から町を見るまでは、津波といってもどの程度のものかもわからない。心の中では「被害が出るのは海岸近くだけだろう。」とか、「2、3時間もすれば、津波もおさまるだろうから、家に戻れるさ。」などと考えたりしていた。しかし淡い期待は跡形もなくつぶれた。同時にこれからの避難生活への不安が心を支配するようになった。「こんな大勢の中で、目の見えない二人が生活していけるだろうか。」という漠然とした不安感。集団生活となると、一定の規律や制限が課せられるのは当然だろう。まして緊急時だ。視覚障害を理由に特別扱いしてもらいたいなどとは思わないが、できないことは理解してもらえるようにする必要がある。中には知った顔もちらほら見かける。といっても親しいというほどではない。ほとんどの人が視覚障害についての知識がないと言っていいだろう。視覚障害についての理解を得るには、少し時間がかかるかもしれない。そのことを心において当面はこの部屋で生活していくことにした。避難所に入って一番気になったのが、トイレだ。位置がどこなのか。一人で行ける距離か。他の事はさておき、トイレぐらいは一人ですませるようにしたかった。夜になり、尿意を催してきたが、とにかく足の踏み場もないほどの鮨詰だ。足を踏んだり、ぶつかってはいけないと少し我慢した。でも1時間が限界。岩手県の女性に小用を告げ、トイレに連れて行ってもらった。トイレの位置は部屋を出て左に10メートルほど。意外に近い。これなら慣れれば一人で来れると一安心。トイレはもちろん断水だ。大便は沢水をためてあるタンクから、バケツで汲んで流さなければならない。小便はともかく、大便の処理は気を遣いそうだ。  その晩は足を縮めて寝た。寝返りも打てないほどの狭さだ。眠れない。結局夜通しラジオを聞いているうちに朝になった。朝食はない。午前中、市の職員が現状と今後のことについて説明に立った。被災地に自衛隊が入っていること。市内(浸水地域)への車両の出入りは関係車両以外、禁じられたこと。などであったが、最後の一言が記憶から離れない。「皆さんに知っておいてほしいことは、駅を境にして、西側と津波に襲われた東側は天国と地獄ほど違います。」  お寺での避難生活は、最初の4、5日こそ食料も物資も極端に少なく、飴玉や煎餅、乾パンにカップメンといった具合。自衛隊による炊き出しが始まり、温かいご飯やスープ、簡単なおかずも出るようになり、おやつに菓子パンが出るようになっていった。困ったのは、食事は玄関で配布するので、必ず一人一食分だけ自分で受け取ることという制限だった。玄関までの廊下は薄暗く、1、2度曲がらなければならなかった。初めての場所で食材を持って歩くのは、私にとってかなり困難だ。妹も「あの廊下は暗くて歩けない。」という。乾パンやカップメンは部屋に直接配布されたのでよかったが、炊き出しが始まって1、2食は食べ損なってしまった。しかし、3〜4日もすると、次第にお互いの顔と声を覚えられるようになり、私たちの分まで持って来てもらえるようになっていった。避難所共同生活連絡協議会なる自治会も発足。5班に分けられて各班長が自治会長らと協議して共同生活の円滑化を図った。 日を経るごとに避難所生活にもなじんでいったが、私にとっての肝心なトイレの環境は悪化するばかりだった。いったん水洗が回復して喜んだのもつかの間、市内の下水処理場につなぐポンプの故障で水洗は使用不能に逆戻り。しかも今度は大便を処理した紙を便器に入れないで、ビニールの袋に入れることになった。大便の付いた紙を、片手でビニール袋の口を探って広げ、その真ん中に落とすのは至難の業といっても過言ではなかろう。ストーブを囲んで他の人たちと雑談したり、希望者にはマッサージや鍼をするほど懇意になっていたが、トイレ環境のストレスと避難生活の疲れが出始めたのか、便秘になり、発熱、食欲がなくなり、嘔吐してしまった。熱は38.6度。やむなく赤十字の救急医療班まで搬送されて点滴を受けた。避難生活10日目だった。  被災から10日以上経過し、幹線道路の瓦礫撤去も進み、避難所にも電気が通り、携帯電話も使えるようになってきた。それまでは、外部との連絡手段は、旧第1中学校近くに設置されたNTTの無料電話サービスを利用するしかなかった。そこに行くには二つのコースがある。避難所となっているお寺の下の道に出るコース。もう一つはお寺の横の崖にかけられた縄梯子を使うコース。前者はまだ瓦礫が部分的に残っている。後者はとても私たちが使えるものではない。結局、私達を探しに来てくれたボランティアさんや、隣の避難所から私たちの様子を見に来てくれた近所の人に連絡先を伝えて電話してもらうしかなかった。  被災後10日過ぎ頃から、携帯電話が使えるようになり、外部とも直接連絡がとれるようになった。視覚障害者協会の会員から身体障害者福祉センター(身障センター)の情報を聞くと、センターは開いており、避難者もいるとのこと。そこで身障センターに直接問い合わせた。受け入れ可能との返事が返ってきた。  翌日お世話になった同室の皆さんに再会を約束して、センターの車でお寺を後にした。身障センターでは6人が機能訓練室、一人が会議室で生活していた。私たち兄妹は、訓練室に敷かれた畳に腰を下ろした。センターは視覚障害者福祉協会の活動で借りることも多く、中の様子は熟知している。  センター内での行動に人の手を借りることはない。ライフラインも正常だ。トイレも心配無用。同じ畳に生活している家族は、30年ほど前に私の治療室を訪れた人だった。家も同じ方向だ。新しい環境にもすぐになじめそうだと思いつつ、センターでの避難所生活が始まった。ところが一つ問題が浮上。センターに入って1週間後の4月1日。センターの通常業務である機能訓練を再開することになったとのこと。私たち避難者は会議室と図書室に移ることになった。会議室は12畳ほどの畳の部屋で、私たち兄妹と5人家族の7人が入り、図書室には車椅子の方が1名入った。それまではセンターの職員が隣の小学校の避難所から炊き出しをもらってきていたそうだが、これからは避難者自身が食材を準備して、センター内で調理することになったという。  避難所なのに、どういうことなのか理解できないままに、食べ物がなけりゃ困るとばかり、友人やボランティア関係に食材の提供を求めた。「そうか、ここは指定避難所ではないのだな。」と気づいたとき愕然とした。  訪ねてくる人々に事情を説明しているうちに、4月下旬に地域福祉課長が突然センターに現れ、「今日からセンターは福祉避難所とします。」と告げられた。事情を知った知人が福祉課に是正を求める電話を入れてくれたらしい。  食材調達の心配は消えたが、調理の負担は同居する健常者の負担として続くことになった。壊れた自宅の片付けで疲れている避難者にとって、3家族8人分の調理は負担が大きい。見かねた私はボランティアの手を借りることを思いつき、視覚障害者協会でお世話になっているボランティアさんに事情を話し協力を仰いだ。快く受けていただき、3人の方が毎日交代で夕食と翌朝の食事の仕込みをしてくれることになった。  福祉避難所の指定を受けたため予算面で余裕が出たのか、5月20日ごろから夕食は仕出し弁当に変わり、朝食だけは避難者が準備することになった。日常生活において欠かすことのできないものに、入浴がある。被災10日目頃から自衛隊が、対策本部のあるシープラザ近くにお風呂を設置。私たちもお寺にいる間に1度入浴のチャンスがあった。避難所の皆さんと一緒に入りに行ったが、私は前述のようにダウンした直後でその時は断念した。妹に様子を聞くと、脱衣場も風呂場も大きなテント作りという。全体的に薄暗く、脱衣場と風呂場が少し離れているので、弱視者は少し危ないし、誘導者が必要だとのこと。センターに移動してからは、やはり避難者一同で自衛隊の風呂に行った。しかし1回きりで、2回目には私と妹がセンターの男性職員と入浴に行った。妹には自衛隊の女子隊員がサポートしてくれたそうだ。その後同居している健常者の方々と行動をともにすることはなかった。理由はわからない・・・。健常者はマイペースの生活を維持したかったのだろうかと、余計な邪推が働いてしまう・・・。結局私たちは、センター長の自宅のお風呂をお借りすることになり、さらに福祉相談員の計らいで、福祉施設のお風呂を拝借することになる。  被災からおよそ1ヶ月経過した4月上旬になると、自宅周辺道路の瓦礫処理が進み、やっと自宅前に立つことができた。車を降りて数メートル歩くうちに心に浮かんだのは「廃墟」の二文字だった。人気は全くなく、汚泥(おでい)と塩分がからみついた異臭が鼻を突く。流れて土台だけになっているところ、1階がつぶれて2階部分に折れた電柱が突き刺さっている家。電線は切れて垂れ下がり、アスファルトの路面もところどころで土がむき出しになり、側溝の蓋は全て外れていた。私の家は一見しっかり建っているようだった。しかし窓という窓は全て壊れている。通りに面した大きな窓から中を覗くが、目茶目茶で何がなんだかわからないそうだ。同行してくれた親戚の人に中に入ってもらったが、足の踏み場もなく、私が入るのは危険だという。事務室、治療室も覗いてもらったが、全ての備品が瓦礫と化し、使えそうなものはあまりなさそうだという。  2階の住居に上がって見ると、玄関の下駄箱が横倒し。それを乗り越えて中に入ってみると、棚や冷蔵庫、仏壇など細長いものは全て倒れているようだ。水は膝の上まで入ったらしい。通りに面した大きな窓のサッシの下半分に大きな穴が空いている。畳は浮いて重なりあい、家具は大きく移動している。片付けるにはかなりの日数と、人手がいることを感じたとき、気が遠くなりそうな気がした。  4月中ごろ、市の対策本部の職員が身障センターを訪れ「貴重品探しのお手伝いをします。」と誘ってくれた。貴重品探しには盛岡の鉄道弘済会の人がボランティアで手伝ってくれた。治療室に飾ってあったパッチワークなど数点の宝物を手にすることができたとき、今自分が生きていることの実感と、悲嘆の中にあっても人の心の優しさに触れることができたことに、安らぎと満足を感じた。  4月末には社会福祉協議会による被災地ボランティアさんたちによって、治療院(1階)と住宅(2階)の瓦礫を処理してもらった。このときも使えそうなものを丹念に選り分けたが、手にするもの全てが泥まみれ、治療器具はもちろん、本もカルテも修復不可能と判断。全ては一から出直しと腹を括った。  6月10日ごろ、都市計画課より仮設入居通知の連絡が入った。6月12日に説明会があり、被災地障害者ボランティアさんと出席し、鍵を受け取った。新住居の名称は天神町仮設団地1−1。23棟130世帯が入る大きな団地だ。同じ外観の建物だけに他の家と間違いやすいこと、視覚に障害があると迷いやすいことなどを考慮し、昨年まで福祉課に在籍し、懇意にしている市の職員に頼んで、わかりやすい場所に入居させていただくようお願いしていた。それで「1−1」なのである。  早速その足で仮設団地に向かい、新住居を体感してみた。4畳半の部屋が二つ、台所、浴室、トイレで、7坪ほどのスペースだ。既にテレビやエアコン、冷蔵庫、洗濯機など電化製品6点セットは設置されている。布団や、トイレットペーパーなどの日用品も一とおり揃えてあった。仮住まいとしては、充分な設備だと感じた。ただし狭い空間であり、うっかり我家同様の動きをすると痛い思いを味わうことになりそうだ。  中を検分した後、団地内を歩いてみた。1号棟の一つ一つの棟の長さ、棟と棟の間隔、地面の状態、ゴミステーションの位置、団地入り口から我家までの距離など確認した。そこで問題点が2、3出てきた。1号棟の1番は希望どおり、団地入り口の近くであり、棟の端でわかりやすく最高の場所だ。問題は入り口近くであるがために、車の出入りが頻繁なこと。駐車スペースが決められていないので、自由に駐車しているため、歩行者、特に視覚障害者の単独歩行には危険が伴う恐れがある。二つ目には、団地入り口付近に歩道と車道の目印になるものがないため、知らずに車道に出てしまう恐れがあること。団地の横を走るのは国道45号線であり、交通量が多い。三つ目は、1号棟前は広くなっているため格好の駐車スペースである。そのため窓のそばまでぎっしり車が止まる。ドアの開閉、話し声などの騒音が意外に気になることがわかった。これらについては後に福祉相談員と話し合って、改善案を対策本部に提出し、白線を引くなどしてもらった。  6月19日に身障センターから仮設住宅に引越した。仮設住宅に移ってからの生活の主軸は、一つは再建に向けての行動。二つに居住環境の整理。三つに、生活リズムの確立とした。  これまでと同じ場所での再建を決意したのは、5月。建築士会に依頼していた建物診断の結果、土台や柱、外壁など構造的には問題がないことがわかった。市の復興計画も決まっていない段階だから、あまり急いで再建に着手することもないと思ったが、残った建物まで強制的に撤去されることはないようなので、まずは現在地で再建を図る方向で進むことにした。  9月から仮設の一部屋を使って治療所を開設した。10月には電話とネットもつながり、一応3.11以前の生活形態に近づくことができた。  被災から現在(12月)に至るまで、絶望感に打ちひしがれながらも、節目節目に多くの人との出会いがあり、お金や物はもとより、公的にも私的にも関係する方面からたくさんの励ましと協力をいただいた。  生活再建も町の復興も緒についたばかりであるが、多くの人々との「絆」を大切にし、一歩ずつ進んでいきたい。 『大規模災害防災等における自治体への要望事項』 1 安否確認について (1)早急な被災者の実態把握のため、障害者計画の中に要援護者名簿の作成を明確に記すこと。 (2)個別の避難計画策定推進を図ること。 (3)災害時要援護者登録した障害者については、その個人情報を必要な福祉団体及び支援団体へ速やかに開示すること。ただし、管理責任は団体が持つことを原則とする。 (4)安否確認等については、視覚障害者が、電話不通時でも利用可能な携帯端末を開発促進し、配布すること。 2 防災・避難 (1)要援護者を速やかに避難所へ誘導できるよう、町内会単位の民生委員等の派遣システムを構築すること。 (2)視覚支援学校(盲学校)及び視覚障害者福祉施設・公共施設を、福祉避難所として利用できるよう避難所指定をし、その指定施設を広報等の媒体で啓発、周知徹底を図ること。 (3)福祉避難所が確保できないときは、避難所内に視覚障害者用の専用スペースを確保すること。 (4)各地域における身近な施設と自治体とが、視覚障害者等障害者緊急避難拠点として利用可能となるよう、支援体制の連携強化を図ること。 (5)防災災害救助法に位置付けられる、避難所及び在宅での生活・移動・心身のケア等をサポートできる障害者災害福祉支援専門員及び支援員の資格制度を創設すること。また、制度創設に伴う、地域災害派遣福祉チームの組織化の構築化と共に、その人材育成を推進すること。 (6)避難所内での文字情報提供時には必ず音声案内もすること。 (7)視覚障害者等障害者や防災弱者を対象とした地域ぐるみの防災、避難訓練の実施を推進すること。 (8)町内会単位等で視覚障害者等障害者の存在を把握し、それに応じた防災・避難マニュアルを作成すること。 (9)警報・注意報が出された場合、要援護者への緊急避難の情報及び避難移動等の人的支援の行政指示系統等の明確化を図ること。 (10)避難所には視覚障害者が必要とする白杖、点字機、ルーペ等を備えること。 3 仮設住宅・復興住宅支援 (1)仮設住宅建設に当たっては、視覚障害者等障害者の利便性に配慮したユニバーサルデザイン住宅となるよう、一定割合の仮設住宅数を確保すること。 (2)災害公営住宅建設に当たっては、設計段階から視覚障害者等障害者の意見聴取を行うと共に、完成前にユニバーサルデザイン点検が可能となるよう配慮すること。 (3)復興住宅や災害公営住宅への視覚障害者等障害者の入居希望に当たっては、優先的に入居とすること。 (4)仮設住宅設置においては、地域気候に対応した断熱材等の建設資材や設備備品を整備し、住みよい居住環境の構築を図ること。 4 公共交通機関・視覚障害者の移動 (1)地下鉄構内表示等の消灯をやめ、弱視者等に配慮した最少の減灯をすること。 (2)視覚障害者の自立歩行が困難とならないよう、公共施設や商店街周辺の誘導ブロックの破損及び歩道の陥没等は、早急に補修整備を図ること。 (3)バス路線の変更及び時刻表等の情報提供がないため、視覚障害者等障害者の利用が困難となっている。よって、広報等で早急に情報提供を図ること。 (4)岩手県内のJR大船渡線が、震災により、盛駅から気仙沼駅間が寸断されている。代替交通手段としてBRT方式での開通となっている。交通弱者としての私たちはBRT方式を暫定とし、2,3 年内を目処とする、早い時期の鉄道方式の復活整備を図ること。 5 雇用就労 (1)震災により、自宅や仮設住宅でのマッサージ・鍼・灸業は、患者数が減少しており、収入が激減し、生活に困窮している。よって、民間企業や県市町村などの公的機関にも震災臨時雇用支援職員枠の中で、視覚障害者の機能訓練指導員・ヘルスキーパー等の雇用を図ること。 (2)仮設住宅での開業は、部屋が狭隘なため、生活スペースや治療スペースの確保が困難である。よって、空いている仮設住宅を専用の施術室として開設できるようにすること。 (3)被災者健康維持のためのマッサージが行われている。しかし、無資格者と有資格者マッサージ業とが混在している。よって、有資格者(視覚障害者を含む)マッサージ業が脅かされることのないよう周知徹底を図ること。 6 地域生活支援 (1)生活物資の出張販売者、出張金融サービスの促進を図ること。 (2)視覚障害者は外出困難者であることから、心身の維持増進のため、外出支援ガイドヘルパーサービス料の柔軟な対応を図ること。 (3)「視覚障害者用防災グッズセット」を日常生活用具に加えること。 (4)心身のケアなどをサポートする相談員の派遣の充実を図ること。 (5)ガイドヘルパー・ホームヘルパーの利用に当たっては、視覚障害者等障害者の利用時間を、震災特例として拡大を図ること。 (6)視覚障害者の健康管理の目安として開発された、空間線量を音声で知らせる「しゃべる線量計」を日常生活用具給付対象品に加えること。 (7)震災直後は、生活物資の配給及び購入支援等は視覚障害者等障害者には充分でなかったため、今後は在宅要援護登録避難者への自宅支援強化を図ること。 (8)テレビ字幕での情報提供には必ず音声を付加すること。 (9)テレビ・ラジオの難視聴地域が多い岩手県沿岸地区に対して、中波をFM波に変換する装置を設置することが可能なら、富山県の例に倣ってその手立てを講じ、難視聴地域の解消を図ること。 以上要望する。 『要望書提出の記録』 2月10日 第1 回実行委員会(1)仙台福祉プラザ 3月 9日 第2 回実行委員会(2)仙台福祉プラザ 3月28日 日盲連評議委員会へ報告 ベルクラッシック東京 4月11日 仙台市へ要望事項提出 仙台市役所 4月22日 宮城県へ要望事項提出 宮城県庁 4月25日 岩手県へ要望事項提出 岩手県議会棟 5月14日 福島県へ要望事項提出 福島県庁西棟 5月25日 情報誌編集会議(1)仙台福祉プラザ 『要望書提出を終えて』 仙台市視覚障害者福祉協会 会長 高橋 秀信  仙台市では昨年から本要望書のための準備が進められ、少しずつ会員の意見を吸い上げて参りました。更に、岩手県、宮城県、福島県からの要望を加え、ここに34項目に及ぶ要望書が完成致しました。  想定外の大地震・大津波と、それに連動して起こった原子力発電所の爆発、そして更には風評被害。私達はあの日、為す術もなく津波に呑まれ、多くの尊い命が失われました。私達視覚障害者は、幸い逃げ延びた方々も情報不足と行動の自由を奪われ、それぞれに大変な思いをしながら、善意ある人たちの手を借りつつ懸命に生きてきました。その苦難の中で生み出されたものが、この要望書であると言っても過言ではありません。  要望書提出に当たって4団体の事務局や役員は、これまでに経験のない事務処理や自治体との連絡調整に追われて参りましたが、市議会議員・県議会議員・国会議員の方々のお力添えもあり、無事に提出することが出来ました。この貴重な経験は、今後色々な要望を自治体に行うときに役立つだけでなく、東北全体の福祉に対する考え方、特に私たち視覚障害者が自らを理解し、互いに力を分かち合うためにも大きい財産になるものと思っています。  要望書提出にあたり、各団体の被災視覚障害者の死亡者数を開示して頂くようにお願いしておりましたが、その結果を以下に記します。 〇東北各団体の被災視覚障害者の死亡者数 (平成24年8月31日現在) 東北全体では119人 ・岩手県35人 ・福島県15人 ・宮城県65人 ・仙台市4人 以上の調査に関して、日盲連と4団体の代表・事務局、更に自治体の方々には御多忙のところ大変ご協力頂きました。改めて厚く御礼申し上げます。 <編集後記>  あの「3.11」から2年と4ヶ月が経ちました。マグニチュード9、最大震度6強という巨大地震とそれに続く大津波。世界の災害史の中でも近代では最悪の大きな被害となってしまいました。更にそれに続く原発被害と風評被害を含めて、私たちの傷は未だ癒えてはおりません。人も経済も、そして心さえも傷つき、今でも不自由で慣れない場所での生活を余儀なくされている多くの方々がいます。我々、東盲連東日本大震災視覚障害者復興支援プロジェクトでは、この未曾有の事態を私達が如何に体験し、如何に助け合って乗り切ってきたかという貴重な資料を未来へ残すため、語り部プロジェクトと共に情報誌として発刊することに致しました。本創刊号では岩手県内の様子を中心に編集しましたが、今後引き続いて参りたいと思います。  壊滅的被害を受けた仙台市若林区荒浜地区では、高さ8メートルの新しい防潮堤が出来上がりましたが、所々欠けた防風林の他、辺りには家もなく、ただ、だだっ広い土地が広がっています。現在も他県からボランティアが入り、人々は田畑の整備に汗を流しています。表面的には随分綺麗になってきていますが、少し地面を掘ると、ガラスの破片や瓦礫が沢山出てくるのだそうです。  仙台市の瓦礫処理は他のところに比べればかなり進んでいますが、そこに住むのは年寄りばかりで、若者はいないそうです。未来へ向けた新しい家を建ててそこに住もうとは思えないのでしょう。若者たちは皆、都心に移り住んでいるようです。老人たちは子供たちが帰って来ないのであれば家を建てても意味がない、と仮設住宅に住みつつ細々と田畑を守って生活しているとか。これまでとはまた違った意味での故郷喪失という将来への不安が浮かび上がっているようです。  本情報誌では、被災地の現状について更に掲載していく予定です。また、被災した団体の情報だけではなく、これまでに起こった大きな災害についても紙面を構成していこうと考えています。各団体からのご協力をよろしくお願いします。  投稿その他については、仙台市視覚障害者福祉協会にお問い合わせください。感想や激励の言葉もお寄せ頂ければ大変嬉しく存じます。 どうぞよろしくお願い致します。 編集委員長 仙台市視覚障害者福祉協会 高橋秀信 電話ファックス兼用022−213−5811 メールアドレス senshikyo@mvg.biglobe.ne.jp 日盲連 http://www.normanet.ne.jp/~nichimo/index.html 宮城県視障協http://www17.plala.or.jp/KENSHI/index.html 語り継ぐ未来への友歩動(ゆうほどう) =災害からのメッセージ= 創刊号 発行日 2013年8月1日 発行責任者 社会福祉法人日本盲人会連合会長 竹下義樹 〒169−8664 東京都新宿区西早稲田2−18−2 電話03−3200−0011(代表) 編 集 東北盲人会連合東日本大震災視覚障害者復興 支援プロジェクト実行委員会