被災視覚障害者心のケアと語り部事業 ―― 報告書 ―― 平成26年3月 社会福祉法人日本盲人会連合 本事業は、独立行政法人福祉医療機構社会福祉振興助成事業 により実施されたものである。 ―― 目次―― あいさつ 第T章 事業概要 1.事業概要 第U章 視覚障害者の心のケア 1.フリーダイヤルの広報 2.フリーダイヤルに寄せられた相談 (1)岩手県在住の方からの相談 (2)宮城県在住の方からの相談 (3)仙台市在住の方からの相談 (4)福島県在住の方からの相談 (5)その他の地域在住の方からの相談 第V章 語り部事業 1.語り部研修会 (1)語り部育成研修会の開催 (2)語り部登録者 (3)語り部マニュアル (4)語り部実施要項 (5)語り部研修会の開催状況 2.アンケート (1)語り部講演会主催者アンケート (2)語り部アンケート 第W章 情報誌の発行 1.語り継ぐ未来への友歩動 (1)創刊号岩手編8月1日発行 (2)第2号宮城編10月1日発行 (3)第3号福島編1月31日発行 第X章 まとめ 1.あの大災害から何を学んだか・被災視覚障害者の 心のケアと語り部事業を終えて 編集後記 あいさつ 東日本大震災から3年が経過し、被災地においては復旧復興活動支援がすすめられています。 その中で被災した多くの視覚障害者は、未だ震災前の生活を取り戻せずに不安な日々を過ごしています。 視覚障害者は、見えないことや見えにくいことから、震災前とは周囲の環境が異なる自宅周辺や、区別がつきにくい同じ建物が並ぶ仮設住宅周辺において、 困難な日常生活を送っています。 また、仕事においても、自宅に戻り鍼灸マッサージ治療院の営業を再開したものの、近隣住民の多くがまだ地元に戻ってはいません。 顧客の大半が近隣住民であることから、顧客が減少し、仕事においても、悩みを抱え不安な思いをしています。視覚障害が故に抱える 不安や悩みを少しでも解消できるよう、被災地域における視覚障害者を対象とした相談支援活動として、フリーダイヤルを設置しました。 また、日頃からの防災意識を高めてもらうため、全国に向けて、情報誌「語り継ぐ未来への友歩動=災害からのメッセージ=」を3回発行しました。 さらに、東日本大震災の記憶が色あせないうちに、その教訓を風化させることなく、今後の防災や減災に役立てることを目的に語り部の育成を行いました。 視覚障害者が避難する時、また避難先においていかに大変な思いをしたかなどを視覚障害者が生の声で伝えていくことが重要です。今後、岩手県、宮城県、仙台市、 福島県において被災した視覚障害者が語り部として全国各地で講演をし、語り継がれ、防災や減災に役立つことを願っています。 これらの取り組みが視覚障害者のこれからの一助となることを期待しています。 第T章 事業概要 1.事業概要 (1)事業名 被災視覚障害者心のケアと語り部事業 (2)事業内容 東日本大震災の被災地における視覚障害者の心のケアと被災 体験を風化させず語り継ぐことを目的に、相談支援(フリーダイ ヤル)を実施する。また、被災した視覚障害者が体験したことを 風化させず語り継ぐことを目的に語り部を育成する。 (3)実施期間 平成26年3月まで (4)事業実施状況 平成25年7月から3月までに下記のとおり検討委員会を3 回と、語り部研修会を岩手県、宮城県、福島県の地域毎に1回開催した。 期日:平成25年7月6日(土) 時間:15:30〜17:00 場所:宮城県立視覚支援学校会議室 第1回検討委員会 議事:事業内容の説明と委員長・副委員長の選任 語り部の統一マニュアルの作成 語り部の派遣要綱の確認 語り部研修会の日程 その他 第2回検討委員会 期日:平成25年11月17日(日) 時間:14:00〜16:00 場所:岩手マッサージセンター 議事:フリーダイヤルの現状報告 被災者へのアンケート調査の調査票の作成 語り部研修会の開催状況の報告 その他 第3回検討委員会 期日:平成26年3月8日(土) 時間:11:00〜13:00 場所:福島県点字図書館 議事:事業報告書の作成 フリーダイヤル事例集の作成 事業収支決算の確認 その他 語り部育成研修会 第1回目(岩手県) 期日:平成25年7月26日(金) 時間:14:00〜16:00 場所:大船渡市福祉の里センター 第2回目(宮城県) 期日:平成25年7月27日(土) 時間: 9:30〜11:30 場所:仙台市福祉プラザ 第3回目(福島県) 期日:平成25年7月27日(土) 時間:14:00〜16:00 場所:福島県点字図書館 議事:語り部事業の目的 東日本大震災語り部活動マニュアルの作成 質疑応答及び実演 第U章 視覚障害者の心のケア 1.フリーダイヤルの広報 視覚障害者のための震災ホットライン、フリーダイヤルを設置しました。 下記情報を本連合ホームページに掲載した他、マスコミ各社や視覚障害者団体等へ周知しました。 視覚障害者のための震災ホットラインフリーダイヤルを設置しました 0120−1049−55 トーホクーゴーゴー  本連合では、東日本大震災において被災した視覚障害者の心のケアのために震災ホットラインの電話を設置しました。 震災から 2年 3カ月が経過し、日常生活を送る上で困っていること、つらいことを一人で悩んでいる方のための電話です。 悩みを話すだけでも気持が軽くなるかもしれません。 一人で悩まずにお話ください。 フリーダイヤル設置期間 平成26年2月28日まで 受付時間 月曜日〜金曜日 9:00〜17:00 ※ これ以外の時間は留守番電話でお受けします 社会福祉法人日本盲人会連合 〒 169-8664東京都新宿区西早稲田2−18−2 電話:03−3200−0011 FAX:03−3200−7755 e-mail: jim@jfb.jp この事業は独立行政法人福祉医療機構 社会福祉振興助成事業の 助成金を受けて実施しております。 2.フリーダイヤルに寄せられた相談 平成25年6月24日(月)から平成26年2月28日(金) までの8ヶ月間フリーダイヤルを設置しました。相談件数は83 件。集計は、下記のとおり。 1.性別 男性 48名 女性 35名 合計 83名 2.視力 全盲 57名 弱視 19名 不明 7名 3.年代 30代 4名 40代 9名 50代 14名  60代 29名 70代 19名 80代以上 4名 不明 4名 4.就労 あり 34名 なし 39名 不明 10名 5.年代別就労のあり・なし 年代     就労あり    就労なし 30代      0名     3名 40代      9名     0名 50代      7名     7名 60代     14名    11名 70代      4名    14名 80代以上    0名     4名 計        34名   39名 6.主な相談内容 移動や歩行が困難 18名 町が復興していない 11名 生活が困難 8名 病気になってしまった 8名 夫の介護 3名 (1)岩手県在住の方からの相談 1.性別 2.視力 3.年代 男性 12名 女性 7名 合計 19名 全盲 12名  弱視 5名 不明 2名 30代 1名 40代 2名 50代 4名 60代 6名 70代 3名 不明 3名 4.就労 あり 10名 なし 5名 不明 4名 5.年代別就労のあり・なし 年代    就労あり  就労なし 30代    0名   1名 40代    2名   0名 50代    3名   1名 60代    4名   1名 70代    1名   2名 80代以上  0名   0名 計 10名 5名 6.主な相談内容 町が復興していない 8名 移動が困難(ガイドヘルパーが足りない) 5名 住まいについて 2名 生活が困難 歩行が困難 等 7.相談事例 (1)「県営・市営住宅の、車椅子利用者以外の障害者の申し込みは、障害者枠ではなくて一般の申し込み扱いにされた。障 害者専用の住居が6戸あり、車椅子利用者1世帯の申し込みだったため5戸余っている。障害者110番に電話をして地元の相談員に相談したが駄目だった。 今後も住む場所は大船渡が良いと思っている。以前は大船渡には病院も多く、女性が一人でも働いて生活することができた。できることなら、市営や県営住宅に住みたいのでもう 一度応募してみることにする。 (2)町があまり変わっていないので不安である。人は減少している。市の計画によってその土地に戻るかどうか迷っている人が多い。友人はマッサージの仕事をしているが、患者がい ないと嘆いている。町を再建するにあたって、視覚障害者が住みやすい町になってほしい。 (3)自宅の周辺には、まだ公営住宅は建っていない。公営住宅や商店街が出来ればいいが、いつのことだか。周辺は建物が壊れっぱなしのままになっている。 (4)郵便局で点字による残高照会をしてもらった。墨字と点字の両方が付いているファイルが届いたが、家族に頼らずに自分で頑張りたいので点字だけにしてもらいたい。 地域住民は増えているが、収入が減ったからだと思うが、治療院に来る人が少なくなった。商店街も売り上げが減っていて、なかなか生活は良くならない。 (5)釜石市内では、視覚障害者が少し市内に戻っては来たが、まだまだ復興が進んでいないように感じる。民家は少しずつ建ってきたが、視覚障害者が住んで一人歩きできる環境まで には中々戻らない。まだまだボランティアの助けが必要だが、ボランティアも中々入ってはもらえない。 (6)北上川東側に住んでいる。災害時に交通が止まってしまった。川に架かる橋が壊れて、西側に行けなかった。仕事に行くのも遠回りして、いつもとは別の橋を渡った。交通が全部 止まってしまうとどこへも行けない。 (7)復興住宅に移る時に、ボランティアグループの方が手伝ってくれた。10月に引っ越す予定で、9月までは手伝えると言ってくれた。 そのボランティアグループがNPO法人を取得する予定で、NPO法人になると事業所としてスタートするので、手伝ってもらえなくなる。今までは出かけたい時に ボランティアグループに助けてもらったが、今後はどうしたら良いかわからない。 (8)視野が狭く、住宅のアスファルトと砂利の段差が分からない。雨が降ると砂利が下がるから転びそうになる。黄色いテープを付けて段差がわかりやすいようにしてほしい。 (9)25棟の仮設住宅で40人くらいが住んでおり、仲良くやっている。高齢の方が多く声を掛け合い、安否確認をし合っている。 (10)家が見つかったので引越しをするが、リフォーム業者がなかなか見つからない。来年の3月以降でないとやってもらえない。県内の業者は大忙しで困っている。 (11)外出支援をボランティアがやってくれていたが、他の事業に切り替わってしまった。前に比べて外出支援が減ってしまった。交通機関も安定していないので困っている。 (12)店が近くにないので買い物するのに困っている。JDF(日本障害フォーラム)のボランティアの車がなくなったら困る。 (2)宮城県在住の方からの相談 1.性別 2.視力 3.年代 男性 14名 女性 9名 合計 23名 全盲 12名 弱視 7名 不明 4名 40代 3名 50代 4名 60代 11名 70代 3名 80代以上 2名 4.就労 あり 10名 なし 10名 不明 3名 5.年代別就労のあり・なし 年代    就労あり  就労なし 30代    0名    0名 40代    3名    0名 50代    1名    3名 60代    6名    2名 70代    0名    3名 80代以上  0名    2名 計     10名   10名 6.主な相談内容 住まいについて 6名 生活が困難 5名 歩行が困難 4名 移動が困難 2名 夫の介護 1名 心療内科に通院している 1名 7.相談事例 (1)視覚障害者の夫婦。障害年金で生活している。去年の11月から夫が病気になってしまった。脳外科に通っているが治療ができない。夫は昼夜が逆転したりして、自分は体   力的にも大変だが看病をしている。 (2)自宅は半壊という行政の判断だったが、壁がひび割れ瓦も壊れて、自分たちで直すのは資金の面でも困難である。   窓枠の立てつけが悪くなったが、修理をしても次にいつ地震が来るかわからないのでなかなか直せないでいる。 (3)仮設住宅に移って1年くらいしてから心が不安定になってきた。それが心配な事。仮設住宅の生活に慣れてきた頃から心が乱れるように感じる。   現在は、役所の人が紹介してくれた病院に通っている。 (4)今は借り上げ住宅にいて今後は復興公営住宅への入居を希望している。以前住んでいた所は借家だったが、大工さんに直してもらったことから、   公営住宅に入れないと言われた。公営住宅の入居には、全壊の罹災証明書と住宅の解体証明書が必要。また公営住宅の抽選は、障害者手帳保持   者よりも母子家庭や高齢者が優先される。石巻は被害が多くて、希望者がたくさんいるので難しく困っている。 (5)マッサージ治療院を経営している。患者は一日一人か二人だが、地元の人の他に工事現場で働く人たちや役場の応援に来てくれる人がマッサージに来てくれる。   商店街で50店舗あり、インターネットに情報を流してくれたので人が来てくれるようになった。良くはなっているが、今後のことを考えると不安である。 (6)移動は単独で公共交通機関を利用している。ぶつかりながら歩いているが白杖は使いたくない。白杖を突いて歩くと、すれ違った人から色々言われるので嫌だ。 (7)収入は仕事の収入のみで、生活は苦しい。自宅のローンが31年残っている。金銭面で不安を抱えている。 (8)復興公営住宅を既に申し込んでいるが抽選になる。市内の復興公営住宅は倍率が高い。過疎地の復興公営住宅はすぐ入れるが、不便なので入りたくない。 (9)今は民間アパートのみなし仮設に入っている。時期は遅れるが今後復興公営住宅に入れそう。視覚障害者は優先されたらしい。現在の生活費は年金のみ。年金が減額になる   ので、これから厳しい。 (10)雪が積もったら一軒家なのでとても困る。ヘルパーさんは雪かきをしてくれない。夫も私も視覚障害者なので、そういう時に助けてくれる人がいるとありがたい。 (11)家は屋根だけはすぐ直して住める状態になっている。その他の所を改修したいが、人手が足りずにできないでいる。 (3)仙台市在住の方からの相談事例 1.性別 男性 14名 女性 9名 合計 23名 2.視力 全盲 19名 弱視 4名 3.年代 30代 2名 40代 2名 50代 5名 60代 5名 70代 8名 80代以上 1名 4.就労 あり 8名 なし 13名 不明 2名 5.年代別就労のあり・なし 年代    就労あり  就労なし 30代    0名    2名 40代    2名    0名 50代    2名    3名 60代    2名    4名 70代    2名    3名 80代以上  0名    1名 計 8名 13名 6.主な相談内容 病気になってしまった 7名 住まいについて 4名 歩行が困難 3名 地域の情報がわからない 就労について 等 7.相談事例 (1)めまい、息苦しさを感じ、発作で倒れたこともある。現在は、3ヵ所のメンタルクリニックに通っている。   1年以上良い状態にならず焦りも出ている。気持ちの上でなんとかなればいいのだけど。 (2)夜眠れないことが心配。体の緊張から起きてしまう。通院しているが、不安である。 (3)今は不安が取り除けないで落ち込んでいる。物質的ダメージ以外の精神的ダメージが大きい。心療内科に通っている。   災害時に自分は何もできず無力に感じた。心のケアにも力を入れてほしい。 (4)近所の付き合いはない。地震の時も近所の人は来なかった。   民生委員は地震の後、2,3日してから来てくれた。一緒に暮らしている息子も帰って来られず、電気・水道・ガスが止   まった中一人でじっとしていた。今はホームヘルパーが週に2回、それぞれ1時間ずつ来てくれる。買い物をしてもらう   のがやっとで、食事の支度まではしてもらえない。 (5)パソコンを購入していたが、地震で壊れてしまった。パソコンを日常生活用具にしてほしい。 (6)点字ブロックはだいたい敷かれているが、住んでいる所にはないので不便だ。ショッピングセンターでは自転車がたくさん止まっているので、歩くのに邪魔になる。 (7)ホームヘルパーが週2回、1回1時間来てくれるが、地域の情報が載る回覧板や掲示板の内容がわからないことがある。近所の人もヘルパーに見てもらってと言って読んでくれない。   突然断水して困ったことがある。 (8)自宅が大規模半壊をして大変だった。地震保険に入っていたのでなんとかなった。保険の大切さを痛感した。 (9)道路は今まで利用していたランドマークが使えなくなった。バスを降りたときに聞こえたゲームセンターの音や、飲食店の匂いもなくなってしまった。点字ブロックがつぶれて   いる所があって、道が分からなくて困る。 (10)移動はヘルパーを利用していたが、仙台のガイドヘルパーはほとんどやめてしまった。今は同行援護ではなくて介護になってしまった。 (11)一応会社員だが2か月仕事がなくてつらい。給料は貰えているが、家にいると燃料費がかかり、灯油の価格も高いので寝て過ごしている。学校の進路指導に仕事がないか聞   いたりしている。あと1か月待って、新しい仕事を探すかどうか決める。 (4)福島県在住からの相談事例 1.性別 2.視力 3.年代 男性 6名 女性 10名 合計 16名 全盲 13名 弱視 2名 不明 1名 40代 1名 50代 1名 60代 6名 70代 6名 80代以上 1名 不明 1名 4.就労 あり 4名 なし 11名 不明 1名 5.年代別就労のあり・なし 年代 就労あり 就労なし 30代 0名 0名 40代 1名 0名 50代 1名 0名 60代 2名 4名 70代 0名 6名 80代以上 0名 1名 計 4名 11名 6.主な相談内容 移動が困難 4名 障害者用の避難所を作って欲しい 運動不足になってしまった 等 7.相談事例 (1)小高区の市営住宅に昼間はいて、水道が整っていないので夜は泊まれないため、鹿島区の避難所にいる。家の中のもの   が出せるようになった時、線量計で計ったら0.27マイクロシーベルトだった。今も震度2くらいの地震が時々ある。 (2)復興のため道路を直しているので歩くのが大変。盲導犬を使っているので歩きにくい。 (3)みなしヘルパーの資格で同行援護をしてもらいたい。移動手段がみつからないので外出もままならない。ヘルパーが足   りない。今は11名いるが、ちゃんとした事業所が少ないので身動きが取れない。相双地区には1級から6級までの視覚   障害者が648名いるのにヘルパーが少なすぎる。 (4)夫がパーキンソン病で、夫の看護をして暮らしている。 (5)移動が不便である。旅行に行ったりもしたいけど、男性のヘルパーがいないので残念。同行援護は去年の4月からやっ   と始まったが、ヘルパーも一人しかいないし、事業所の認定がおりない。今はタクシーを使うか歩くかだが、駅まで15分くらいかかる。  南相馬と相馬の間は電車が通じているが、南相馬と名取の間はバスしか通っていない。 (6)一人でいることが多いので不安。店が閉まってしまい、買 い物がとても不便になった。 (7)自宅にいる人には電気製品が支給されない。避難所に行っ て仮設住宅に入らないとだめだった。自宅で頑張っている人 への支援がないのが残念に思う。 (8)放射能が怖い。食事をとるのも気にしてしまう。この地域 にはガイドヘルパーがほとんどいない。妻が介助してくれる から助かっているが、妻も疲れている。 (5)その他の地域在住の方からの相談 1.性別 男性 2名 女性 1名 合計 3名 2.視力 全盲 2名 弱視 1名 3.年代 40代 1名 60代 1名 70代 1名 4.就労 あり 2名 なし 1名 5.年代別就労のあり・なし 年代 就労あり 就労なし 30代 0名 0名 40代 1名 0名 50代 0名 0名 60代 0名 1名 70代 1名 0名 80代以上 0名 0名 計 2名 1名 6.主な相談内容 生活の不安等 3名 7.相談事例 (1)年金と仕事の収入で生活している。仕事はマッサージをしているが、患者数も激減しており将来的に不安がある。 (2)スーパーマーケットなどの駐車場の障害者スペースに、一般の車両が止まっていて困る。 (3)今住んでいる所も海から近い。家族がいない時に何かあったら怖い。一人では避難できないので不安である。 第V章 語り部事業 1.語り部研修会 (1)語り部育成研修会の開催 語り部の育成研修会を岩手県、宮城県、福島県の3ヵ所で開催しました。各地域において推薦された語り部に本事業の目的 と語り部の統一マニュアルを伝えました。 さらに、語り部の統一マニュアルを活動マニュアルとするため、語り部の実体験を聞き、実際に講演の方法や注意事項を共 通認識とすることを議論しました。 期日:平成25年7月26日(金) 場所:大船渡市福祉の里センター 参加者:8名 期日:平成25年7月27日(土) 場所:仙台市福祉プラザ 参加者:6名 期日:平成25年7月27日(土) 場所:福島県点字図書館 参加者:4名 (2)語り部登録者 (1)岩手県(11名) 小笠原 拓生 佐々木 芳子 久保 秋悦 熊谷 賢一 田澤 愛子 古水 健吾 中村 亮荒熊 稔 藤原 正菅原 利美 藤原 美幸 (2)宮城県、仙台市(8名) 越中 美智恵 平塚 啓志 金内 光枝 狩野 禧世子 金子 たかし 鈴木 清子 立身 憲一 小松 伸久 (3)福島県(6名) 矢島 秀子 大和田 紀雄 三上 サト子 大和田 ヨシノ 齋藤 啓二 高沢 孝夫 (3)語り部マニュアル 東日本大震災語り部活動マニュアル このマニュアルは語り部活動を行うための話し方のマニュアルとして概略を記したものです。下記の順番でお話ししていただけ れば聴衆者によくお伝えできると思います。 なお、震災に遭われた体験は個々に違うと思います。本マニュアルの順番に沿って、「 」の部分にご自身の体験をご自身 の言葉でお話ししてください。 1.自己紹介 (1)名前は「 」と言います。 (2)出身は「 」県「 」市です。 (3)視力は「 」です。 (4)職業は「 」です。 2.お話をする際に皆様に知っておいてもらいたいこと。 (1)私達視覚障害者は、普通の字を読むこと、書くことができません。 (2)見えないため、自分の行きたいところへ自由に移動することができません。 (3)私達視覚障害者の仲間には、見え方に色々な人がいます。 全然見えない人。見えるが 0.01から 0.3までの視力に段階があります。明暗で見えなかったり、見えにくかったりする 人もいます。視力が弱いと識別が難しい人もいます。このようなことをまず知っておいていただきたいと思います。 3.語り部をしようと思った動機 私は、視覚障害者として東日本大震災を体験しました。東日本大震災をどなたにも忘れていただきたくないと思っています。 さらに、災害時に視覚障害が故の困難さを社会の多くのみなさんに聞いていただきたいと思っております。これらが今後の 防災に役立つことを願い、語り部としてお話することと致しました。 4.地震や大津波の発生直後の体験について (1)地震の発生の時のお話ですが、その強さや家の中の状況は「 」のような状況でした。 (2)大津波の様子についてですが、見えないので詳細にはわかりません。周囲の人から聞いた話をお伝えしますと 「 」のような様子で、まずは命を守るために誰かの手を借りて避難しなければと思い必死に避難しました。 5.大津波からの避難について   大津波がどのように押し寄せてくるかは、地形や防波堤の高さによって違うと思います。私が津波の押し寄せる様子がわか  ったのは、ラジオからの情報でした。まずは、外に出てみると、周囲の人の話では、「色々な瓦礫が道路を埋め尽くしているよ」  という話が聞けました。まずは津波から逃れるために、命からがら第1避難所に避難するのに精一杯でした。 6.第1避難所での生活について (1)避難所の自分の居場所(就寝するところ)は、「」で、見えない私にはとても大変でした。  一人でトイレに行くことも、元いた場所に戻ることも容易ではありませんでした。 (2)避難所での移動は1回も行ったことがないところでしたし、避難者が大勢いて、移動する通路の様子がわからないので本当に大変でした。 (3)食事の配給のルールは、自分で列に並んで、一人分だけを受け取ってくるというのが原則でした。見えない私には、と   ても無理で、どなたかにお願いするしかありませんでした。 (4)情報提供については、一番の頼りはラジオやテレビからの音声情報でした。電話回線が復旧してからは、電話による情   報の受発信でそれぞれの状況がわかるようになってきました。音声による避難所内の放送はとても助かりました。掲示板に書かれていることや、張り出された紙に書いてあること、   回覧板で伝えられる情報は、私にはほとんどわかりませんでした。 7.仮設住宅の生活について(避難生活) (1)仮設住宅の入居希望については、原則くじ引きですが、私の場合は、「 」でした。 (2)住宅の希望位置については、視覚障害者でも出入りしやすいところを希望しましたが、結果は「 」でした。 (3)住宅内の様子は、広さは四畳半二間と台所です。その中に冷蔵庫、洗濯機、エアコン、石油ストーブなどがあります。   冷暖房については夏暑く、冬寒いという仮設住宅です。つまりその土地に合った住宅ではないということです。 (4)仮設住宅はその大半が中心部から離れて建っています。食糧品や生活物資の調達は、歩いて買いに行くことはなかなか   できません。ですから非常に苦労します。特に見えない世帯には、ガイドヘルパーやホームヘルパーのお世話にならなければ生活が難しいです。 (5)周辺とのコミュニケーションについては、今まで暮らしていたところとは違います。周辺の環境が大きく変わったので、外出して地域の集会や説明会に参加することはとても難し   いです。つまり、私は外出困難者となってしまいます。 8.被災視覚障害者への行政対応について (1)震災のための支援制度の申請書等の読み書きについてですが行政の対応は「 」でした。 (2)視覚障害者への理解については「 」でした。 (3)今後の行政の防災対応についてですが、次のようなこと   「 」をお願いしたいと思っています。 9.震災を体験して今私が思っていること。 (1)地域とのコミュニケーションが本当に日々の生活に大切だと感じました。 (2)私は視覚障害者の団体に所属していますが、震災を通じて組織や仲間の支えあいの大切さが良くわかりました。 (3)その他については、自由にお話させていただきます。 (4)語り部実施要項 災害語り部派遣等要項 第1章 総則 (趣旨) 第1条 東日本大震災で体験したことを、さまざまな機会を捉え各方面に語り継ぐことにより、歳月がたっても、その教訓を風化させず、 今後の視覚障害者の防災・減災に役立てることをこの趣旨とする。 (語り部の派遣) 第2条 語り部は、研修会・講演会に係る派遣とする。 (派遣人数) 第3条 語り部の派遣人数は原則として1名とする。 また、語り部に付き添う者も派遣の対象とする。 2 依頼者が、必要と認めるときは前項の限りでない。 (経 費) 第4条 派遣に係る経費は、次のとおりとする。 (1)旅費・交通費 (2)宿泊費 (3)その他の経費 (旅費・交通費) 第5条 旅費及び交通費については、次のとおりとする。 (1)鉄道運賃 (2)航空運賃 (3)バス賃 2これらの起算は、語り部の居住地の最寄り駅・バス停及び 会場の最寄り駅・バス停とする。 3これらの金額は、経路に関わらず最低料金とする。 (宿泊費) 第6条 宿泊費は、近隣施設の安価な場所を選定する。ただし、主催者が指定した場合はこの限りでない。 2 航空券などで宿泊費を含むパックがある場合は、その金額とする。 (講演会場) 第7条 講演会場については、主催者の指示に従うものとする。 (使用備品) 第8条 講演会場において使用する物品は、原則として次のとおりとする。ただし、会場や内容によってはこの限りでない。 (1)DVDプレーヤー (2)プロジェクター (3)マイク 2講演台、机椅子等は主催者で準備する。 3語り部は、東日本大震災に関係するDVDを持参すること がある。 (備品使用料) 第9条 講演で使用する物品等の使用料に関しては、主催者負担とする。ただし、状況によっては協議を行い支払うものとする。 (研修内容) 第10条 研修の内容については、主催者と協議の上決定とする。 2 主催団体が研修内容を提示し依頼した場合は、その内容を精査したうえで決定とする。 (開催場所) 第11条 研修会開催場所については、主催者の指示に従うものとする。 (謝金) 第12条 研修会・講習会などにおける謝金は、概ね2時間を原則とし、交通費等とは別に協議の上決定とする。 (依頼方法) 第13条 語り部の依頼方法は、別紙の依頼文書を提出するものとする。 (連絡調整) 第14条 語り部の派遣に係る連絡及び調整に関しては、日盲連組織部職員と、主催団体職員の間で綿密に行うものとする。 2 連絡調整を行った場合は、その内容確認のため、電子メール等によりそれぞれに送信することとする。 (協議事項) 第15条 本要項に記載のない事項については、主催者と協議の上決定する。 (事務担当) 第16条 本要項に係る事務担当は、日本盲人会連合組織部が担当する。 2 連絡先は次のとおり (1)住所:〒169-8664東京都新宿区西早稲田2−18−2 (2)電話:03−3200−0011 (3)FAX:03−3200−7755 (4)e-mail:jim@jfb.jp 附 則 本要項は、平成25年7月6日より施行する。 (第13条関係) 平成 年 月 日 社会福祉法人日本盲人会連合 会長竹下義樹様 団体名 役職・氏名 . 〇〇研修事業に係る語り部の派遣について(依頼) 下記のとおり〇〇研修事業を実施いたしますので、語り部を講 師として派遣していただきますようご依頼申し上げます。 記 1.日程:平成 年月 日( ) 時分 〜 月 日( ) 時 分 2.会場: 3.事業名: 4.派遣数人: 5.費用:@謝金( 円) A交通費・宿泊費(主催者が実費を負担します) 6.打合せ:電話にて 月 日実施予定 7.その他 8.備考 連絡先 住所: 電話: FAX: 担当者: (5)語り部研修会の開催状況 語り部研修会を終えた、語り部達が以下の日程で被災体験などを講演しました。 (1)福島県 期日:平成25年9月29日(日) 場所:福島県郡山市障害者福祉センター 依頼者:(社)福島県視覚障がい者福祉協会 語り部:【福島県】矢島秀子 大和田紀雄 三上サト子大和田ヨシノ 齋藤啓二 高沢孝夫 参加者:99名 (2)山形県 期日:平成25年10月13日(日) 場所:山形県身体障害者保養所東紅苑 依頼者:(特)山形県視覚障害者福祉協会 語り部:【福島県】矢島秀子 参加者:38名 (3)秋田県 期日:平成25年10月19日(土) 場所:秋田県社会福祉会館 依頼者:(社)秋田県視覚障害者福祉協会 語り部:【宮城県】金内光枝 参加者:35名 (4)埼玉県 期日:平成25年11月10日(日) 会場:埼玉県障害者交流センター 依頼者:(社)埼玉県視力障害者福祉協会 語り部:【福島県】矢島秀子 参加者:100名 (5)茨城県 期日:平成25年11月24日(日) 会場:水戸市三の丸ホテル 依頼者:(福)茨城県視覚障害者協会 語り部:三上サト子 参加者:160名 (6)新潟県 期日:平成25年11月24日(日) 会場:新潟市総合福祉会館 依頼者:(福)新潟県視覚障害者福祉協会 語り部:【宮城県】小松伸久 参加者:18名 (7)京都府 期日:平成26年2月2日(日) 会場:京田辺市社会福祉センター 依頼者:(福)京田辺市社会福祉協議会 語り部:【岩手県】熊谷賢一 参加者:80名 2.アンケート (1)語り部講演会主催者アンケート 東日本大震災被災視覚障害者語り部講演実施報告 (1)語りのテーマ (2)主な講演内容 (3)主な質疑応答 (4)講演内容で今後活かせる防災対策等について (5)講演を聞いての感想 東日本大震災被災視覚障害者語り部講演実施報告 (1)語りのテーマ:震災語り部から学ぶ、我々の東日本大震災 (2)主な講演内容 ○震災直後の自宅アパートの様子や、家族との連絡状況、親戚宅での避難生活から、現在の生活の様子。 ○仮設住宅での水害の2次災害の様子、現在の生活の様子。 ○原発事故からの避難の様子、転々とする避難所生活の様子から現在の 生活の様子。 ○盲導犬との別れ。 (3)主な質疑応答 ○震災で避難所生活をし、視覚障害者として不自由を感じたこと。 ○震災を経験して、生活していく上で学んだことや、変わったこと。 ○福祉避難所を設置する時に経験者として要望したいこと。 ○現在、日々生活している上で心がけていること。 (4)講演内容で今後活かせる防災対策等について ○ご近所や親戚との、普段からのお付き合いの大切さ。 ○白杖は常に持ち出せる場所(例えば、玄関)に置くようにすること。 ○水や食料等の備蓄の大切さ。 ○講演内容からではなく自己の被災体験から、浴槽の水は常に溜めてお くようにする。 (5)講演を聞いての感想 ○マスコミからは多くの人たちの体験を聞くことはあっても、身近な視 覚障害者の仲間の中から、今回の震災の体験を聞くことができて、と ても有意義であった。 ○福島県は広いので、震災の被災状況も様々であったが、身近な視覚障害者の仲間の中から、避難所生活や原発事故の生々しい体験を聞くこ とができて、大変勉強になった。 ○個人的には今回の震災で大きな被害はなかったが、いつ我が身に起こるかもしれない自然災害の恐ろしさを、語り部の話の中から改めて実感した。 ○「備えあれば憂いなし」との言葉を改めて実感したとともに、我が家での備蓄について考えるよい機会になった。 ○原発(放射能)は怖いと思った。 東日本大震災被災視覚障害者語り部講演実施報告 (1)語りのテーマ:東日本大震災と津波体験について 研修のテーマ:災害時における行政並びに各個人の対応と備え (2)主な講演内容 〇恐怖を伴うすさまじい揺れの体験について。 〇避難所までの移動が弱視者にとっても足下が危険で大変だったこと。 〇弱視者の本人が避難所で体験した様々な苦労話。 (3)主な質疑応答 Q:直後一番頼りになったのは? A:隣近所の人であり、普段からのおつきあいが大切であると思った。 Q:避難時に必要な持ち出しものや避難所暮らしで苦労した点などは? A:持ち出しものについては普段の心がけが大切である。しかし、避難時は身軽であることと足下が大切である。避難所では掲示物が分から なかったり、弱視者であることが理解してもらえなかったりということがよくあった。そんなときにも一番助けになったのは近所付き合い をしている方々であり、日常のコミュニケーションの大切さを痛感した。 (4)講演内容で今後活かせる防災対策等について 〇弱視者でさえ一般の避難所で長時間暮らすのは大変なことから、障害 者の受け入れ施設確保や避難マニュアルの整備・徹底を急ぐべきと思う。 〇掲示物など全ての文字情報は繰り返し音声情報として伝えて欲しい。 (5)講演を聞いての感想 〇災害時の緊急避難や、避難所暮らしの生々しい体験をうかがい、防災意識を高めることができた。 〇この日は行政の対応についても説明があったが、その内容は抽象的なもので不安が残った。 〇全盲の人がどんな苦労をしたのかも聞いてみたかった。 東日本大震災被災視覚障害者語り部講演実施報告 (1)語りのテーマ:視力障害者の津波・原発避難体験 (2)主な講演内容 〇地震・津波からの盲導犬を伴っての避難と避難所体験ついて。 〇その後の福島原発による避難所の状況と生活体験について。 〇埼玉、都内など県外での避難生活状況、特に医療機関や同行援護の利用等について。 〇立ち入り制限区域内自宅への一時帰宅の感想。 (3)主な質疑応答 〇地震・津波による小高区内の視覚障害者の避難状況はどうだったのか。 →10名の視覚障害者は、遅れて避難した人もいたが全員無事避難所に避難した。 〇南相馬市の原発避難区域の範囲はどうなっているのか。 →小高区の自宅は20キロ圏内に入っている。 〇避難所における困難な生活状況を克服するための晴眼者支援の課題。 →視覚障害者で支援が必要であること、周囲の協力体制の確保などが必要。 (4)講演内容で今後活かせる防災対策等について 〇避難や避難所における盲導犬同伴の場合の対応とその体制の確保。 〇避難所や避難先における視覚障害者の連絡、連携体制の整備。 (5)講演を聞いての感想 〇今回、リタイヤせざるを得なかった盲導犬を同行しての講演であったが 盲導犬を伴っての避難、困難な避難所生活の体験内容は大変説得力があった。 〇避難所、家族、親戚など避難先を転々としながら、それぞれの避難生活 における様々な課題が語られたが、それぞれの場面での家族など周囲の支えの大切さが語られていた。 東日本大震災被災視覚障害者語り部講演実施報告 (1)語りのテーマ:東日本大震災の体験に学ぶ (2)主な講演内容 〇震災発生から現在の生活状況。 〇災害への対応。 (3)主な質疑応答 (4)講演内容で今後活かせる防災対策等について 〇日頃の近所との付き合いの大切さ。 〇準備が必要な物など。 ・地震保険への加入 ・カップ麺やお菓子等、日持ちする物の買い置き ・携帯電話、充電器、補助充電器 ・携帯トイレ ・部屋の家具固定のためのツッパリ棒 (5)講演を聞いての感想 〇避難所における困ったこと等をもう少し聞きたかった。 (2)語り部アンケート 語り部アンケート調査票 ( 1 )7 月2 6 、2 7 日に実施した語り部育成研修会は講演をする上で役に立ちましたか。 @ 大いに役立った A 役立った B どちらとも言えない C あまり役立たなかった D 役立たなかった その理由 ( 2 ) 講演ではどのようなお話をしましたか。( 複数回答可) @ ご自身の被害状況 A 避難所等の避難生活 B 職業関係 C 日頃からの近所付き合いの大切さなど D 防災や日頃から備え E 行政の対応 F 視覚障害者協会やその他福祉関係団体等の対応 G その他 ( 3 ) 参加者に対して主にどのようなことを伝えようとしましたか。 ( 4 ) 伝えようとしたことはうまく参加者に伝えられましたか。 @ はい A いいえ その理由 ( 5 )参加者からはどのような質問がありましたか。また、どのように回 答しましたか。 質問: 回答: ( 6 ) 今回の講演で次回実施の目標はできましたか。 ( 7 )その他、ご意見、ご感想、ご要望等がありましたらご記入ください。 語 り 部 講 演 に お け る ア ン ケ ー ト 調 査 (1)語り部育成研修会は講演をする上で役に立ちましたか。 @大いに役立った。 その理由:初めての活動で、知らないことだらけだった。いろいろ教え てもらえて助かった。 (2)講演ではどのようなお話をしましたか。(複数回答可) @ご自身の被害状況 A避難所等の避難生活 C日頃からの近所付き合いの大切さなど D防災や日頃からの備え E行政の対応 F視覚障害者協会やその他福祉関係団体等の対応 Gその他:自分の体験したこと。自分の身を守ること。原発の事。 (3)参加者に対して主にどのようなことを伝えようとしましたか。 未だに避難している現状を話した。健康、家族のことなど。 (4)伝えようとしたことはうまく参加者に伝えられましたか。 @はい その理由:原発の話に耳を傾けてくれたから。 (5)参加者からの質問と回答。 質問:津波のことを主に話してくれといわれた。 回答:自分は津波を体験しなかったので、人から聞いた話を伝えた。 質問:マンションの高い階に住んでいる人から、いつ何があってもいいように白杖を手元に置いておいた方がいいかと聞かれた。 回答:自分はとっさに白杖を持たずに逃げてしまった。白杖があれば視覚障害者の目印にもなるので、出来るだけ持って逃げた方がいい。 (6)今回の講演で次回実施の目標はできましたか。 災害はいつやってくるかわからない。油断できない。自分の体験を役立てて頂きたいので、これからも話していきたい。原発のことも忘れられな いよう話していきたい。 (7)その他、ご意見、ご感想、ご要望等がありましたらご記入ください。 福島に住んでいるので、1年に1度健康診断を受けている。今のところ健康状態は良好なので良かった。 語り部講演におけるアンケート調査 (1)語り部育成研修会は講演をする上で役に立ちましたか。 @大いに役立った その理由:話をする相手先の特徴を考えなければいけない事は知らなかった。教えてもらって良かった。 (2)講演ではどのようなお話をしましたか。(複数回答可) @ご自身の被害状況 A避難所等の避難生活 F視覚障害者協会やその他福祉関係団体等の対応 Gその他:避難先で隣近所の方にとてもお世話になったこと (3)参加者に対して主にどのようなことを伝えようとしましたか。 原発のことを特に言いたかった。 避難所も、普通の災害避難所とは違うと感じたことを話したかった。 (4)伝えようとしたことはうまく参加者に伝えられましたか。 @はい その理由:聞いてくださった方が、よくわかったと言ってくれた。 (5)参加者からの質問と回答 質問:なかなか質問をしてくれる人がいなかった。 回答:南相馬市の地形を説明した。 質問:南相馬市はどういうところかということを聞かれた。また、なぜ福祉協会に連絡しなかったのかと言われた。 回答:連絡については、点字図書館にはいち早く連絡した。当日は携帯電話からはどこへもつながらなかった。落ち着いてからいろいろな所に 連絡した。電話がつながるまで情報が入りにくかった。 (6)今回の講演で次回実施の目標はできましたか。 原発の事、今の福島の現状も話さないといけないと思っている。 ただし、あまり原発のことを言うと嫌がる人もいる。茨城県や栃木県の人は身内が東京電力に勤めている人も多いので。 (7)その他、ご意見、ご感想、ご要望等がありましたらご記入ください。 自分は人前に立つと緊張するほうなので気を付けないと。 語り部講演におけるアンケート調査 (1)語り部育成研修会は講演をする上で役に立ちましたか。 A役立った (2)講演ではどのようなお話をしましたか。(複数回答可) @ご自身の被害状況 A避難所等の避難生活 B職業関係 C日頃からの近所付き合いの大切さなど D防災や日頃からの備え E行政の対応 F視覚障害者協会やその他福祉関係団体等の対応 Gその他:人に頼らず自力でなるべく避難所に行くよう心がける。 (3)参加者に対して主にどのようなことを伝えようとしましたか。 障害者は行政に頼りすぎ。周りとの付き合いを大切にすること。 (4)伝えようとしたことはうまく参加者に伝えられましたか。 @はい その理由:聞いている人から救われたと言ってもらえたから。 (5)参加者からの質問と回答。 質問:避難所の生活について。どのように対応したか。 回答:自分の体験したことを話した。避難所で物資を貰うため並んだが、目がよく見えないから品物がわからず、うろうろして終わり。そのあ と日盲連から視覚障害者用のベストを頂き、それを着て並ぶとまわりから気を使ってもらえた。 (6)今回の講演で次回実施の目標はできましたか。 前の事もまじえて、現状も伝えたい。 (7)その他、ご意見、ご感想、ご要望等がありましたらご記入ください。 語り部講演におけるアンケート調査 (1)語り部育成研修会は講演をする上で役に立ちましたか。 A役立った (2)講演ではどのようなお話をしましたか。(複数回答可) @ご自身の被害状況 A避難所等の避難生活 B職業関係 C日頃からの近所付き合いの大切さなど D防災や日頃からの備え (3)参加者に対して主にどのようなことを伝えようとしましたか。 備えておいて良かったものと、備えておくべきだったもの。 (4)伝えようとしたことはうまく参加者に伝えられましたか。 @はい その理由:話に反応し、興味を持って聞いてくれた。 (5)参加者からの質問と回答。 質問:行政の対応について。要援護登録を受けたら、どんなサービスが受けられるか。 回答:即答できなかった。ちなみに自分は災害があったあと登録した。 (6)今回の講演で次回実施の目標はできましたか。 関心が高かった行政のサービスについて調べておきたい。 近隣の人たちとのつながりが大切だということを話したい。 (7)その他、ご意見、ご感想、ご要望等がありましたらご記入ください。 語り部の事業を実施するにあたって、語り部が負担にならないよう、交通や色々な面でサポートをしていただきたい。 語り部講演におけるアンケート調査 (1)語り部育成研修会は講演をする上で役に立ちましたか。 A役立った。 (2)講演ではどのようなお話をしましたか。(複数回答可) @ご自身の被害状況 A避難所等の避難生活 C日頃からの近所付き合いの大切さなど D防災や日頃からの備え F視覚障害者協会やその他福祉関係団体等の対応 (3)参加者に対して主にどのようなことを伝えようとしましたか。 近所付き合いの大切さ。情報を集めることや、行政とのつながり、福祉 協会の活動に普段から参加することが大切だと伝えた。 (4)伝えようとしたことはうまく参加者に伝えられましたか。 Aいいえ その理由:なかなかスラスラと話せなかった。 (5)参加者からの質問と回答。 質問:視覚障害者で協会に入っていない人に対して、今後入会してもらう など、どのように取り組んでいったらいいと思うか。 回答:協会の活動以外でも、音訳・点訳グループとのかかわりを持った方 がいいと伝えた。 (6)今回の講演で次回実施の目標はできましたか。 もう少し話す内容を整理してお話しすればよかったと思う。次にいかし たい。 (7)その他、ご意見、ご感想、ご要望等がありましたらご記入ください。 どこかでまた開催されるのであれば、講演したい。 第W章 情報誌の発行 1.語り継ぐ未来への友歩動 この情報誌は、東日本大震災における東北盲人会連合の支援活動や、被災した視覚障害者の貴重な体験談を掲載しています。 障害者の防災と減災の地域社会システムの構築のあり方について、共に考え、共に活動していきたいという目的で発刊しました。 大災害の体験を風化させることなく、未来永劫語り継ぎ、周囲の地域住民である友人と共に、活動に向けて共に歩み出すという 思いから、情報誌の名称を『語り継ぐ未来への友歩動』としました。 情報誌を3回発行し、内容は、各号岩手県、宮城県、福島県の3県の活動内容と現状報告となっております。 (1)創刊号 岩手編 8月 1日 発行 (2)第2号 宮城編 10月 1日 発行 (3)第3号 福島編 1月31日 発行 発行部数:墨字版:300部 点字版:200部 音声版:100部 ※全国の視覚障害者団体に送付した他、日本盲人会連合のホームページに掲載した。 この事業は社会福祉法人福祉医療機構社会福祉振興助成事業の助成金を受けて実施しております。 日本盲人会会連合 振興助成事事業の助成金金 情報誌『語り継ぐ未来への友歩動』に寄せて 社会福祉法人日本盲人会連合 会長 竹下 義樹 東北盲人会連合が情報の発信と地域の発展を目指し、会員相互の交流を深めるため、この度、情報誌『語り継ぐ未来への友歩動』 を発刊する運びとなったことに敬意を表し、心からお祝い申し上げます。 情報は人間が生きていくために欠かすことのできない重要なものです。会員の声が地域に届くためにも、かけがえのない媒体 となることでしょう。 東日本大震災が発生し、多くの視覚障害者が命を奪われ、あるいは自宅を失い被災生活を余儀なくされています。被災視覚障害 者の避難所などでの生活は、視覚障害ゆえに多くの困難を抱えています。2011年3月11日の大震災の直後に、日本盲人福祉 委員会及び日盲連が支援活動を開始する中で、組織の存在価値を改めて確かめ合うことができました。一人の声は尊重されなけれ ばならないとはいえ、往々にして無視されがちです。それゆえ、一人ひとりの声を束ね団体としての声にすることが必要であり、 団体として社会に大きくアピールし、国や自治体によって要求が実現されることになります。情報誌は、そうした役割を担う重要 な手段です。情報誌『語り継ぐ未来への友歩動』発行が、今後の東盲連としての活動の充実と加盟各団体の組織強化に役立つこ とを願い、発刊のお祝いの言葉とします。 平成25年 6月15日 『発刊に当たって』 社会福祉法人日本盲人会連合 東北ブロック理事 及川清隆 東日本大震災からもう2年4ヶ月余りが過ぎています。私たち はこの震災が時の流れのまま忘れ去られてしまうのではないか と憂えております。そこで、全国の視覚障害者団体で構成してい る社会福祉法人日本盲人会連合(以下、日盲連と記す。)と、東 北の視覚障害者団体で構成している東北盲人会連合(以下、東盲 連と記す。)とで下記のような活動を展開して行くことといたし ました。 この情報誌は、日盲連と東盲連とで連携して東日本大震災視覚 障害者復興支援プロジェクト実行委員会(以下、実行委員会と記 す。)を立ち上げ、これまでのいろいろな大災害を検証しながら、 東日本大震災を中心とする視覚障害者の生の貴重な体験談や大 災害のいろいろな情報を掲載して、皆さんとこれからの視覚障害 者等、障害者の防災・減災の地域社会システムの構築のあり方に ついて、共に考え、共に活動していきたいという目的で発刊する ものです。 このような趣旨から、私たちは「大災害の体験を風化させるこ となく、未来永劫語り継ぎ、周囲の地域住民である友人と共に、 活動に向けて共に歩み出しましょう」という思いで、情報誌の名 称を『語り継ぐ未来への友歩動』と致しました。 実行委員会で立てたこれからの活動の柱は、次の四つです。 1.東日本大震災被災各自治体首長への視覚障害者支援対応要望 書の提出。 2.研修事業としての、語り部プロジェクト活動・視覚障害者当事 者を対象とする災害及び防災研修の実施。 3.震災支援電話相談窓口の開設。 4.情報誌の発刊。 いずれも、皆様方からのお力がなければ、それぞれの活動の活 性化は期待できませんので、今後の私たちの活動への一層のご支 援とご協力を賜ります様、宜しくお願い申し上げます。 最後になりましたが、この情報誌の意義をご理解の上で執筆・ 編集・情報提供等協力していただいた団体・個人の皆様に、改め て感謝の意を表します。 これまで多くの皆様方から震災支援金等の物心両面にわたる ご支援をいただきましたことに対しても、被災東北3県を代表し、 この紙面をお借りして心からの感謝を申し上げますと共に、この 情報誌が皆様にご愛読いただけますことを祈念いたしまして、情 報誌『語り継ぐ未来への友歩動』の発刊に当たってのご挨拶とさ せていただきます。 ◇◇◇◇3.11あの時の風景(岩手編)◇◇◇◇ 『3.11被災地の視覚障害者を訪ねて』 視覚障害者支援ボランティア 三浦 輝夫(岩手) あの悪夢の大災害直後から、私は、視覚障害者福祉協会の事務 局に関わる妻を手伝って、沿岸地区在住の会員67名の皆さんの 安否確認に取り組んだ。固定電話、携帯電話ともつながらない状 態の中で頼りにできたのは、ラジオとインターネットであった。 IBC、NHK とも、連日安否確認情報を流し続けている。両局に 視福協として、視覚障害者の安否情報の提供のお願いと、避難所 等におられる視覚障害者への周囲の支援のお願いを繰り返し流 していただいた。これを聴いて、数人が無事との情報が得られた。 一番頼りになったのは、インターネット。google の安否確認 サイトは素晴らしいものだった。こちらで安否確認したい人の情 報を提供しておくと、それを見た人が知っている情報を書き込ん でくれる。私は、安否の知れない方々全員を登録し、情報の提供 を待った。これによって安否確認ができた人は20人を下らない。 中には東京からの情報提供もあり、情報化時代の横のつながりの すばらしさを実感した。 被災地の通信網の回復と共に、多くの会員が無事との情報が入 って来るようになったのは、災害発生から3週間は経っていた。 それでも、人づての情報が多く、確証の持てないものが多かった。 そのうち、日盲連から災害見舞い規定に基づく見舞金の給付のた め、個々の被災状況の調査が求められた。事務局での協議の結果、 手分けして現地に入り、直接情報収集をすることが必至となった。 《宮古地区》 2011年4月14日、岩手視福協の及川理事長と共に私たち 5名は、車2台に分乗し、宮古市、田老町、山田町地区に入った。 まさに陽春の候、梅の花が開き、季節は確実に進んでいた。 宮古市の商店街は1階部分が津波により破壊されているもの が多いが、建物は残っており、浸水箇所には消毒の石灰が散布さ れていた。停電が復旧していない箇所も多く、市内は所々信号機 が停止していた。市内から45号線への分岐点には県外から派遣 された警官が立って、手信号で車をさばいている。 私たちは45号線を南下し下閉伊郡山田町へと向かった。車が 宮古市の郊外の磯鶏地区に入ると風景が一変した。道路両脇の建 物は破壊され、船や大きな丸太が家を押しつぶしている。宮古港 藤原埠頭に近いホテル近江屋も1階部分はめちゃめちゃで、駐車 場には海から運ばれてきた金属製のブイのようなものが横倒し になっていた。県立宮古商業高校のあたりは坂になるので無事だ が、そこを過ぎて一路高浜地区、金浜地区と車を進めると、その 惨状は言葉にならない。道路脇の防波堤を悠々越えた津波は、周 辺の民家を全て飲み込んでいた。 いうまでもなく私たちが目にしているのは、被災から1ヶ月後 の風景である。道路がまず整備され、車だけは走れるようになっ ている。3月11日、ここを巨大な波が襲い、逃げまどう人も動 物も、あらゆる建造物も飲み込んで去って行ったのだ。今、スト ップモーションのかかった風景を目にするものですら震撼する のに、リアルタイムでそれを体験した人々の恐怖は想像を絶する。 あちらこちらにつぶれてひっくり返る車は、トミカの模型ではな く、あの日まで生きていた車である。車や倒壊家屋にペンキで描 かれた赤い×印が痛々しい(ご遺体発見の印と聞く)。 深い溜息と共に山田町に入った。山田湾はいつものようにきら きら輝き、何事もなかったように美しい。しかし、車の窓を開け ると、打ち上げられた様々な生物や、多分冷凍海産物の腐蝕した 匂いが混じっているのだろう、思わず、むっとする匂いが流れ込 んできた。私たちはまず、県立盲学校(現・盛岡視覚支援学校) 同窓生2名が働く県立山田病院を訪問した。平地にある山田病院 は1階部分がことごとく破壊され使い物にならない状態で、割れ た窓もそのままの、まさに野戦病院さながらであった。その中で、 K子さん、T雄さんの二人が働いておられた。お二人ともご自宅 は無事で、もっぱら、病院の復旧に尽くしておられた。波が押し 寄せる瞬間、患者さん達を2階以上に移動させ、何とか難を逃れ たという。その後は、被災した1階部分の物品の運び出しや、清 掃など、連日の体力勝負の復旧活動に従事し、今は2階で医療活 動ができている。 病院周囲は新興住宅地で、新しい家が多く建ち並んでいたはず であるが、ほぼ全壊状態で、真新しい建材がむき出しでつぶれて いる家々が痛々しい。コンクリート製の電柱もほぼ全て同じ高さ で折れ曲がって倒れており、津波の力の恐ろしさを伝えている。 理事長は、電柱が折れるということが想像できないと、折れた電 柱を実際に触られた。瓦礫の中に横たわる電柱の折れ曲がった部 分は、内部のおびただしい鉄骨がむき出しになって、ヘアピンの ように曲がっている。 お二人を激励し、治療院を営むWさん宅を見舞う。山田駅の近 くから入るのだったと、入り口の道路を探すが、町並みが全て消 え、広々と見渡せるのだが、目当ての駅がどれか見分けがつかな い。行き過ぎて戻れば、あれが確かに駅だという建物が目に入る が、駅前のシンボルツリーは黒焦げに焼け、駅舎も真っ黒焦げで 見る影もない。 Wさんの長崎地区は、若干高台に位置し、見たところ、津波の 這い上がったほぼ限界に当たるようだ。Wさんのお父様の趣味の 立派な盆栽は全て塩水を被ったというが、流されてはいなかった。 そこから少し上がれば全く被害の様子は見られない。 Wさんは、お父様と盲導犬と共に元気でおられた。1階1M近 くまで浸水し、しばらく2階に避難しておられたが、その後親戚 を頼り、現在は自宅にもどっておられた。お父様が大工さんとい うこともあり、既に改修の手が加えられ、1階に居住しておられ た。津波に加え、火災により街のほとんどが消えた恐怖は筆舌に 尽くしがたい。 Wさんのお父様の案内で、織笠地区で家屋を流失されたOさん が避難しているという、ご実家に向かった。Oさんのお住まいの あたりは、壊滅していた。ご実家はかなりの高台で難を逃れてい た。しかし、Oさんはそこにはおられず、大沢地区の方に引っ越 しておられた。(後日、Oさんから伺えば、一度波にさらわれな がら泳ぎ、返す波で陸に押し戻されて助かったという。) この後山田町役場を訪問、行方不明のHさんの情報を求めたが、 わからず仕舞いだった。今後の情報提供と、視覚障害者の皆さん へのご支援をお願いして、役場を出た。(残念ながらHさんは亡 くなられていた。) 役場は高台で無事だが、そこに至る坂道の下まで家屋は被災し ていた。役場からは、薄黒くくすんだ空爆の跡のような風景が広 がっている。 私たちは無言で祈りつつ、街を後にした。 《釜石地区》 翌15日、同じメンバーで、釜石、大槌地区を訪問した。釜石 支部長のNさんは、2階までの浸水により半壊状態で、釜石市身 体障害者福祉センターに避難しておられた。避難生活の中、仲間 の安否情報収集に努められ、多くの方々の安否確認ができている。 ご自身は、パソコンやプレクストークなど情報収集機器に不自由 しておられ、支援を求めておられる。視覚障害者の皆さんに共通 した要望である。 釜石の街の被災状況は昨日見た宮古市、山田町とは違う。市街 地の建物のほとんどが被災してめちゃめちゃなのだが、その状態 の建物がほとんどその場に残っているのだ。波によって内部が破 壊され尽くした建物が傾き、つぶれ、あるいは骨組みとしてその 場に残っているものすごさというものを感じる。誰があの日この 場で…と、臨場感の中で考えてしまう。スッカラカンと洗い去ら れた町並みとは違ったものすごさである。家の中に車がひっくり 返っていたり、店の前に泥だらけの商品だったものが山積みにな っていたり。「瓦礫と呼んでほしくない。これは私たちの思い出 の品の山なのだ。」という被災者の言葉が、ここでは実感できる。 ここでも、多くの家屋や車に赤い×印が残されている。 釜石は私がかつて3年勤めた地であり、何度となく飲み歩いた 「呑んべえ横町」も皆消えてしまった。大渡橋の袂の桜が何事も なかったようにほころび始めていた。 家を流失されたT子さんの避難する栗林小学校に向かう。途中 の両石の町も消えていた。鵜住居地区のかなり奥まで壊滅状態で、 出るのは溜息ばかりである。栗林地区は鵜住居から笛吹峠に向か うかなり奥に位置するが、そのかなり奥まで津波の爪痕は見て取 れた。かろうじて家が残った被災者の方々は、家の中の泥の処理 や、家財の運び出しに無言で取り組まれておられる様子が車窓か ら見える。中には、つぶれた家の前に呆然と立ちつくす姿も。 栗林小学校の体育館にT子さんは避難しておられた。狭い一人 の居住空間に、T子さんの笑顔があった。日中のせいか、体育館 の中にいる人は多くはないが、置かれている生活用品は隙間がな く、この避難所の朝晩の様子が思いやられる。T子さんは努めて 気丈に、「きれいさっぱり持って行かれました」と笑った。その 笑顔は救いだが、別れ際の握手と激励の言葉には涙がこぼれていた。 3時半頃だったが、体育館の舞台にボランティアの方が上がって、軽い体操を促していたが、 立ち上がって応ずる人はまばらで、ある若者は、目もくれず、かったるそうに横になってゲーム機と にらめっこしていた。被災から1ヶ月、避難している方々の疲労感は覆いようもないようだ。 次に向かったのは大槌町の災害対策本部の置かれている中央公民館。大槌の町も火災に遭っており、町全体が黒ずんだ瓦礫の 山となっている。痛々しく目に入るのは、大槌小学校だ。4階建てとおぼしき新しい校舎全体が黒く焦げ、3階までは確実に波を かぶったと見える。子どもたちの恐怖を思うと胸が痛む。 住居が流失したHさんご夫妻の避難先がわかり、寄ってみることに。町から大槌・川井線に入って少し行ったところの親戚宅に お二人はおられた。波に追われるように、娘さんの手引きで難を逃れたというお二人だった。 釜石地区居住者の安否確認は全て終わり、ほぼ全員の無事が確認された。 《陸前高田・大船渡地区》 陸前高田、大船渡地区には4月21日にお邪魔した。宮古市を訪れてから1週間、春もだいぶ進み、被災地からは桜の便りも既 に届いている。 住田町を過ぎたあたりまでは、何事も感じられない春先のドライブであったが、陸前高田市の表示を見ると気が重くなった。 何度となく報じられたあの風景を見るのかと思うとどうしても気が重くなる。 車が市街地からかなり離れた竹駒地区に入ったとたん、風景は一変した。ここまで来るかよといった正直な思い。潮の香りも、 波の音もほど遠いこの地区である。波は気仙川を遡って襲いかかっていた。田んぼの中の一本桜が濃いピンクの色の花を開き、泥 をかぶった風景をより悲しくさせている。形をかろうじて残した町はずれのガソリンスタンドに「営業中」の看板が掲げられ、確 かに営業していた。 高田1中にこちらの支部長、Kさんが避難しておられる。かなりの高台の中学校の校庭には、あふれんばかりの車。奥には自衛 隊の車も止まっている。ちょうど、衣服の配給があるとかで、被災者の長蛇の列ができている。その中にはKさんはおられなかっ た。理事長が携帯で呼び出すと、Kさんは玄関に現れた。避難の時どこかにぶつかって傷めたという、左目の金属の眼帯が痛々しい。 K支部長にはこれまでも気仙町在住者の安否情報をかなり頂いている。しかし、いまだに行方の知れない方々が何人かいて、 案じられる。 Kさんは、波に追われながら、あわやというところで助かったという。少し遅れた方々は波に呑まれた。また、呑まれかかった ところを引っ張り上げられた方もおられたとか、生々しい状況が語られた。ご本人いわく。「見えなくてよかった。」この惨状を目 で見ないだけでもよかったというのである。襲いかかる津波の音、人々の叫び声、それだけでも恐怖であったろう。見える人たちは、 それにプラス、映像があった。 後日談であるが、「人生いろいろ」とはよく言ったもので、Kさんは九州からボランティアで来ておいでの女性とめでたくご 結婚された。まさに「人生塞翁が馬」である。陸前高田の被災状況は何度もテレビでも流れているが、まさに、きれいさっぱり町 は消えた。高田松原も1本の松を残して消えた。(この時期、一本松はまだ生きていたが、その後枯死が確実となり、国内外から 寄せられた寄金により「震災復興モニュメント」として復活する。) いち早く建てられた仮設住宅には既に居住が始まっている。校庭の奥の桜が美しく花開き、その下を迷彩服の自衛隊員が忙しく 行き来している。立ち並ぶ仮設トイレには「使用禁止」の張り紙。屎尿処理施設も使えず、満杯になった糞尿を処理する術がないのだ。 町の高低差の多い大船渡の被災状況はまた独特のものがある。ここまでが被災地という線がはっきりしている。その高低の一線 が、運命を分けている。 山田の町と同じような匂いを嗅ぎながら、市役所を訪問した。周囲は桜が二〜三分咲きで、春本番を告げている。 県道9号を綾里地区へ。 その途中の赤崎地区の被災状況はこれまたすさまじい。形が残った家々も、2〜3Mの高さまでべっとりと重油が付着し、ここまで重油に浸かりましたと いう印を残している。打ち上げられた船、海に浮かぶ瓦屋根。広大な港湾の空き地となったところには被災した自動車が何百台と置かれ、自動 車の墓場と化していた。幹の途中で大きく折れた桜の木が花を咲かせている。 数人の外国人が瓦礫の山に登って、この惨状を写真に写している。私もカメラは持っているが、とても写真にする気持ちにはなれない。 綾里地区も重油の匂いにまみれていた。対策本部に行くと女性職員が即座に、探していたYさんの家の場所を教えて下さり、無 事であるという。早速行ってみると、Yさんの庭のすぐ下まで津波は押し寄せていて、石垣組みの庭には上がっていなかった。ご 本人は不在ではあったが、安堵した。 再び大船渡市内にもどり、住居を流失し、治療院の1階に浸水があったAさんご夫妻を訪問。今まさに大工さんが入って、浸水 した1階を修繕しているところだった。ご夫妻は避難所で、被災者にマッサージの奉仕をしておられた。治療院の再開にも意欲を 示しておられるのが心強かった。惨状を目の当たりにして、これ以上自然と対決してはいけないと心から思った。自然への畏れと 敬いを形にした住環境作りこそが今後追究されるべきだと。 また、この大災害の中で、障害者がどのような立場に置かれたか、これから実証されなければならないと思う。今は語れなくと も、被災した障害者の方々が、つらかったであろう自らの体験について口を開いていただける日を待ちたい。「災害弱者」とは障 害者だけをいうのではない。一人ひとりの証言が、犠牲者を一人でも減らすことにつながるのである。 2011年4月24日記す(2013年5月一部加筆訂正) 体験ルポ 『震災体験記』 (福)岩手県視覚障害者福祉協会 釜石支部長 中村 亮 私は釜石市で鍼灸治療院を営んでいる全盲の視覚障害者である。家族はやはり視覚に障害のある妹と二人きりである。3月11日午後2時46分、 私は一人の患者の治療を終え、3時に予約してある患者の来院を待っていた。その間を利用してカルテに目を通し、メールチェックをしていた。 突然腹の底に響くような地鳴りを感じた。瞬間「地震」と察した。2日前にM7.3の強い地震があったばかり。「またか」と思う間もなく本震がやってき た。揺れは非常に大きく、一昨日のものとは規模が全く違うことが直感的にわかった。火災を避けるため待合室の反射式ストーブ の火を消し、沸いていたヤカンを手に揺れがおさまるのを待った。これまでに経験したこともないほどの、強くて、長い揺れだった。 パソコンを置いてある机や、流し台、本棚などからガタンガタンと物が倒れる音がする。揺れが少し小さくなったところで、事務 室、治療室の状況を確認しようとした。事務室は手洗い用の洗面台から水があふれて床は水浸し。治療室は二つの戸棚の蓋が開い て、中の治療道具類が床に散乱。カウンターや本棚のCDやカセットテープや本やカルテのほとんども同様。足の踏み場もない。 重い本棚やカウンターが壁から5センチ以上も離れている。ふと電気のことが頭をよぎった。常に流れているはずの音楽が聞こえ ない。「停電だ・・・」。それに気づいた瞬間、不吉な予感を覚えた。「とんでもないことになる」。 このとき妹は買い物に出ていた。10分ほど離れたスーパーの中で地震に襲われた。私は「もしかして、俺たちはこれで終わり かな・・・」と思った。「大津波」の文字が無意識に頭を覆っていたからだろう。そして「逃げることができるだろうか」という 耐え難い不安。何から行動すべきかも思い浮かばずに、半ば呆然としているところに、隣の写真館の奥さんが飛び込んで来てくれ た。「割れた物で怪我しないように靴を履いてて。」と告げて出て行った。「はたしてどの程度の津波が来るのだろうか。」と思いな がら1階に下りると妹とお向いのおばさんの話声が聞こえた。何はともあれ無事に帰ってきてくれた。いつも持ち歩いているかば んにその辺のものを詰め込んで外に出た。そのとき「一緒に逃げるよ。」と言う女性の声。斜め向かいの家に住む女性だった。「そ の恰好じゃ寒いから、何か着なさい。」と言われて気づいた。私は白衣姿だった。あわててジャンパーを取りに中に戻り、ついで に携帯ラジオを探した。すぐに見つけて聴いてみた。丁度、釜石からの中継らしく「津波が釜石港の堤防を越えて、走行中のト ラックを呑み込みました。」というアナウンサーの声に、胆をつぶした。海岸からは500メートルほどしかない。もはや一秒の 猶予も許されない。遅すぎたかもしれないという不安が胸中に去来する。「あっ、表通りの側溝から水が溢れている。」と彼女が叫 んだ。避難場所はかつての中学校のグランド。直線距離で200〜300メートル。自宅付近よりは少しは高い場所だ。女性の腕 に私が手を添え、私のかばんに妹がつながり、妹の横に隣のおばさんが着くという4人編成。なだらかに続く坂道を黙々と避難場 所に急いだ。前方の高いところからは「走れ、急げ。」「早くしろ。」などと絶叫している声が降ってくる。津波が迫っていることがわ かる。避難場所近くまで来て後ろを振り向くと、50〜60メートルほど後方の交差点角の米屋さんに水が入ったことがわかっ た。車が流されて行った。一次指定避難場所の旧第1中学校のグランドまではもう一息。ほどなくグランドにたどり着くことがで きた。グランド内は避難者のざわめきがただよい、既に多数の人がいることが想像できた。津波は旧第1中学校の校舎のすぐ下で 止まったらしい。避難場所では何度も大きな余震が感じられ、その度に怯えとも悲鳴ともつかないどよめきが方々から聞こえてくる。 かなり寒くなってきたので、2次避難場所である近くのお寺に移動することになった。近いといっても、いつもの道は津波と瓦 礫に覆われて通行不能。遠回りだが、いったん裏山を上ってお寺に降りるしか道はないという。地元の人の先導で、私たち4人を 含む数十人の人たちの列がお寺を目指した。足腰の弱いお年寄りの中には「もう歩けない。」としゃがみこむ人もいる。山道を歩 くこと約30分。お寺に着いたときは夕暮れだったようだ。お寺の前庭には、焚き火で暖をとっている人、町を見下ろしている人、 寺に出入りする人たちなど大勢の人がいるにもかかわらず、案外ひっそりとしており、焚き火のパチパチという音が妙に印象的 だった。早速私たちも自分の家の方向に目を向けた。瞬間、一緒に逃げてきた女性がつぶやいた。「アア、だめだ、すっかりつぶ れている・・・。」しばらくは言葉もなく呆然と見つめているだけだった。一緒に逃げてきたもう一人のおばさんが「中村さんち は立っているよ。うちも立っている。屋根にバケツみたいなものが上がってる。ほとんどがつぶれたり流れたりしている。まっす ぐ建ってる家なんてないよ。」と見たままを伝えてくれた。しばらくの間、何をどのように判断すればよいのかもわからないまま に、眼下に広がる破壊された町を見つめるだけだった。 「とにかく中に入ろうか。」と促され、お寺の中に避難場所を移すことにした。お寺の中は避難者で立錐の余地もないほどだっ た。後で聞いた話では、500人以上の人がいたそうだ。私たち4人は、広い本堂は避けて20畳ほどの部屋が三つ並んでいるう ちの端の和室に入らせてもらった。既に30人ほどの人がいたようだ。 皆渡された毛布一枚のほかは着の身着のまま。敷かれた布団に寝ている人もいる。津波に流されてお寺の下で救出された女性。 近くの病院に通院中に津波に巻き込まれた人。幼い子を連れた女性・・・。 部屋の片隅に腰を下ろした私たちは、さっき見た町の様子を二人に何度も話してもらった。ラジオでは津波の被害状況をひっき りなしに流している。その中で今でも耳に残っているのは「被害甚大」とか「壊滅状態」というフレーズだ。 お寺から町を見るまでは、津波といってもどの程度のものかもわからない。心の中では「被害が出るのは海岸近くだけだろう。」 とか、「2、3時間もすれば、津波もおさまるだろうから、家に戻れるさ。」などと考えたりしていた。しかし淡い期待は跡形も なくつぶれた。同時にこれからの避難生活への不安が心を支配するようになった。「こんな大勢の中で、目の見えない二人が生活 していけるだろうか。」という漠然とした不安感。集団生活となると、一定の規律や制限が課せられるのは当然だろう。まして緊 急時だ。視覚障害を理由に特別扱いしてもらいたいなどとは思わないが、できないことは理解してもらえるようにする必要がある。 中には知った顔もちらほら見かける。といっても親しいというほどではない。ほとんどの人が視覚障害についての知識がないと 言っていいだろう。視覚障害についての理解を得るには、少し時間がかかるかもしれない。そのことを心において当面はこの部屋 で生活していくことにした。避難所に入って一番気になったのが、トイレだ。位置がどこなのか。一人で行ける距離か。他の事はさ ておき、トイレぐらいは一人ですませるようにしたかった。夜になり、尿意を催してきたが、とにかく足の踏み場もないほどの鮨 詰だ。足を踏んだり、ぶつかってはいけないと少し我慢した。でも1時間が限界。岩手県の女性に小用を告げ、トイレに連れて 行ってもらった。トイレの位置は部屋を出て左に10メートルほど。意外に近い。これなら慣れれば一人で来れると一安心。トイ レはもちろん断水だ。大便は沢水をためてあるタンクから、バケツで汲んで流さなければならない。小便はともかく、大便の処理 は気を遣いそうだ。 その晩は足を縮めて寝た。寝返りも打てないほどの狭さだ。眠れない。結局夜通しラジオを聞いているうちに朝になった。朝食 はない。午前中、市の職員が現状と今後のことについて説明に立った。被災地に自衛隊が入っていること。市内(浸水地域)へ の車両の出入りは関係車両以外、禁じられたこと。などであったが、最後の一言が記憶から離れない。「皆さんに知っておいてほ しいことは、駅を境にして、西側と津波に襲われた東側は天国と地獄ほど違います。」 お寺での避難生活は、最初の4、5日こそ食料も物資も極端に少なく、飴玉や煎餅、乾パンにカップメンといった具合。自衛隊 による炊き出しが始まり、温かいご飯やスープ、簡単なおかずも出るようになり、おやつに菓子パンが出るようになっていった。 困ったのは、食事は玄関で配布するので、必ず一人一食分だけ自分で受け取ることという制限だった。玄関までの廊下は薄暗く、 1、2度曲がらなければならなかった。初めての場所で食材を持って歩くのは、私にとってかなり困難だ。妹も「あの廊下は暗く て歩けない。」という。乾パンやカップメンは部屋に直接配布されたのでよかったが、炊き出しが始まって1、2食は食べ損なっ てしまった。しかし、3〜4日もすると、次第にお互いの顔と声を覚えられるようになり、私たちの分まで持って来てもらえるよ うになっていった。避難所共同生活連絡協議会なる自治会も発足。 5班に分けられて各班長が自治会長らと協議して共同生活の円滑化を図った。日を経るごとに避難所生活にもなじんでいったが、私にとっての 肝心なトイレの環境は悪化するばかりだった。いったん水洗が回復して喜んだのもつかの間、市内の下水処理場につなぐポンプの 故障で水洗は使用不能に逆戻り。しかも今度は大便を処理した紙を便器に入れないで、ビニールの袋に入れることになった。大便 の付いた紙を、片手でビニール袋の口を探って広げ、その真ん中に落とすのは至難の業といっても過言ではなかろう。ストーブを 囲んで他の人たちと雑談したり、希望者にはマッサージや鍼をするほど懇意になっていたが、トイレ環境のストレスと避難生活の 疲れが出始めたのか、便秘になり、発熱、食欲がなくなり、嘔吐してしまった。熱は38.6度。やむなく赤十字の救急医療班ま で搬送されて点滴を受けた。避難生活10日目だった。 被災から10日以上経過し、幹線道路の瓦礫撤去も進み、避難所にも電気が通り、携帯電話も使えるようになってきた。それま では、外部との連絡手段は、旧第1中学校近くに設置されたNTTの無料電話サービスを利用するしかなかった。そこに行くには 二つのコースがある。避難所となっているお寺の下の道に出るコース。もう一つはお寺の横の崖にかけられた縄梯子を使うコース。 前者はまだ瓦礫が部分的に残っている。後者はとても私たちが使えるものではない。結局、私達を探しに来てくれたボランティア さんや、隣の避難所から私たちの様子を見に来てくれた近所の人に連絡先を伝えて電話してもらうしかなかった。 被災後10日過ぎ頃から、携帯電話が使えるようになり、外部とも直接連絡がとれるようになった。視覚障害者協会の会員から 身体障害者福祉センター(身障センター)の情報を聞くと、センターは開いており、避難者もいるとのこと。そこで身障センター に直接問い合わせた。受け入れ可能との返事が返ってきた。 翌日お世話になった同室の皆さんに再会を約束して、センターの車でお寺を後にした。身障センターでは6人が機能訓練室、一 人が会議室で生活していた。私たち兄妹は、訓練室に敷かれた畳に腰を下ろした。センターは視覚障害者福祉協会の活動で借りる ことも多く、中の様子は熟知している。 センター内での行動に人の手を借りることはない。ライフラインも正常だ。トイレも心配無用。同じ畳に生活している家族は、 30年ほど前に私の治療室を訪れた人だった。家も同じ方向だ。新しい環境にもすぐになじめそうだと思いつつ、センターでの避 難所生活が始まった。ところが一つ問題が浮上。センターに入って1週間後の4月1日。センターの通常業務である機能訓練を再 開することになったとのこと。私たち避難者は会議室と図書室に移ることになった。会議室は12畳ほどの畳の部屋で、私たち兄 妹と5人家族の7人が入り、図書室には車椅子の方が1名入った。 それまではセンターの職員が隣の小学校の避難所から炊き出しをもらってきていたそうだが、これからは避難者自身が食材を準 備して、センター内で調理することになったという。 避難所なのに、どういうことなのか理解できないままに、食べ物がなけりゃ困るとばかり、友人やボランティア関係に食材の提 供を求めた。「そうか、ここは指定避難所ではないのだな。」と気づいたとき愕然とした。 訪ねてくる人々に事情を説明しているうちに、4月下旬に地域福祉課長が突然センターに現れ、「今日からセンターは福祉避難 所とします。」と告げられた。事情を知った知人が福祉課に是正を求める電話を入れてくれたらしい。 食材調達の心配は消えたが、調理の負担は同居する健常者の負担として続くことになった。壊れた自宅の片付けで疲れている避 難者にとって、3家族8人分の調理は負担が大きい。見かねた私はボランティアの手を借りることを思いつき、視覚障害者協会で お世話になっているボランティアさんに事情を話し協力を仰いだ。快く受けていただき、3人の方が毎日交代で夕食と翌朝の食 事の仕込みをしてくれることになった。 福祉避難所の指定を受けたため予算面で余裕が出たのか、5月20日ごろから夕食は仕出し弁当に変わり、朝食だけは避難者が 準備することになった。日常生活において欠かすことのできないものに、入浴がある。被災10日目頃から自衛隊が、対策本部の あるシープラザ近くにお風呂を設置。私たちもお寺にいる間に1度入浴のチャンスがあった。避難所の皆さんと一緒に入りに行っ たが、私は前述のようにダウンした直後でその時は断念した。妹に様子を聞くと、脱衣場も風呂場も大きなテント作りという。全 体的に薄暗く、脱衣場と風呂場が少し離れているので、弱視者は少し危ないし、誘導者が必要だとのこと。センターに移動してか らは、やはり避難者一同で自衛隊の風呂に行った。しかし1回きりで、2回目には私と妹がセンターの男性職員と入浴に行った。 妹には自衛隊の女子隊員がサポートしてくれたそうだ。その後同居している健常者の方々と行動をともにすることはなかった。理 由はわからない・・・。健常者はマイペースの生活を維持したかったのだろうかと、余計な邪推が働いてしまう・・・。結局私た ちは、センター長の自宅のお風呂をお借りすることになり、さらに福祉相談員の計らいで、福祉施設のお風呂を拝借することになる。 被災からおよそ1ヶ月経過した4月上旬になると、自宅周辺道路の瓦礫処理が進み、やっと自宅前に立つことができた。 車を降りて数メートル歩くうちに心に浮かんだのは「廃墟」の二文字だった。 人気は全くなく、汚泥(おでい)と塩分がからみついた異臭が鼻を突く。流れて土台だけになっているところ、1階がつぶれ て2階部分に折れた電柱が突き刺さっている家。電線は切れて垂れ下がり、アスファルトの路面もところどころで土がむき出しに なり、側溝の蓋は全て外れていた。私の家は一見しっかり建っているようだった。しかし窓という窓は全て壊れている。通りに面 した大きな窓から中を覗くが、目茶目茶で何がなんだかわからないそうだ。同行してくれた親戚の人に中に入ってもらったが、足 の踏み場もなく、私が入るのは危険だという。事務室、治療室も覗いてもらったが、全ての備品が瓦礫と化し、使えそうなものは あまりなさそうだという。 2階の住居に上がって見ると、玄関の下駄箱が横倒し。それを乗り越えて中に入ってみると、棚や冷蔵庫、仏壇など細長いもの は全て倒れているようだ。水は膝の上まで入ったらしい。通りに面した大きな窓のサッシの下半分に大きな穴が空いている。畳は 浮いて重なりあい、家具は大きく移動している。片付けるにはかなりの日数と、人手がいることを感じたとき、気が遠くなりそう な気がした。 4月中ごろ、市の対策本部の職員が身障センターを訪れ「貴重品探しのお手伝いをします。」と誘ってくれた。貴重品探しには 盛岡の鉄道弘済会の人がボランティアで手伝ってくれた。治療室に飾ってあったパッチワークなど数点の宝物を手にすることが できたとき、今自分が生きていることの実感と、悲嘆の中にあっても人の心の優しさに触れることができたことに、安らぎと満足 を感じた。 4月末には社会福祉協議会による被災地ボランティアさんたちによって、治療院(1階)と住宅(2階)の瓦礫を処理しても らった。このときも使えそうなものを丹念に選り分けたが、手にするもの全てが泥まみれ、治療器具はもちろん、本もカルテも修 復不可能と判断。全ては一から出直しと腹を括った。 6月10日ごろ、都市計画課より仮設入居通知の連絡が入った。6月12日に説明会があり、被災地障害者ボランティアさんと出 席し、鍵を受け取った。新住居の名称は天神町仮設団地1−1。23棟130世帯が入る大きな団地だ。同じ外観の建物だけに他 の家と間違いやすいこと、視覚に障害があると迷いやすいことなどを考慮し、昨年まで福祉課に在籍し、懇意にしている市の職員 に頼んで、わかりやすい場所に入居させていただくようお願いしていた。それで「1−1」なのである。 早速その足で仮設団地に向かい、新住居を体感してみた。4畳半の部屋が二つ、台所、浴室、トイレで、7坪ほどのスペースだ。 既にテレビやエアコン、冷蔵庫、洗濯機など電化製品6点セットは設置されている。布団や、トイレットペーパーなどの日用品も 一とおり揃えてあった。仮住まいとしては、充分な設備だと感じた。ただし狭い空間であり、うっかり我家同様の動きをすると痛 い思いを味わうことになりそうだ。 中を検分した後、団地内を歩いてみた。1号棟の一つ一つの棟の長さ、棟と棟の間隔、地面の状態、ゴミステーションの位置、 団地入り口から我家までの距離など確認した。そこで問題点が2、3出てきた。1号棟の1番は希望どおり、団地入り口の近くであ り、棟の端でわかりやすく最高の場所だ。問題は入り口近くであるがために、車の出入りが頻繁なこと。駐車スペースが決められ ていないので、自由に駐車しているため、歩行者、特に視覚障害者の単独歩行には危険が伴う恐れがある。二つ目には、団地入り 口付近に歩道と車道の目印になるものがないため、知らずに車道に出てしまう恐れがあること。団地の横を走るのは国道45号線 であり、交通量が多い。三つ目は、1号棟前は広くなっているため格好の駐車スペースである。そのため窓のそばまでぎっしり車 が止まる。ドアの開閉、話し声などの騒音が意外に気になることがわかった。これらについては後に福祉相談員と話し合って、改 善案を対策本部に提出し、白線を引くなどしてもらった。 6月19日に身障センターから仮設住宅に引越した。仮設住宅に移ってからの生活の主軸は、一つは再建に向けての行動。二つ に居住環境の整理。三つに、生活リズムの確立とした。 これまでと同じ場所での再建を決意したのは、5月。建築士会に依頼していた建物診断の結果、土台や柱、外壁など構造的には 問題がないことがわかった。市の復興計画も決まっていない段階だから、あまり急いで再建に着手することもないと思ったが、残 った建物まで強制的に撤去されることはないようなので、まずは現在地で再建を図る方向で進むことにした。 9月から仮設の一部屋を使って治療所を開設した。10月には電話と ネットもつながり、一応3.11以前の生活形態に近づ くことができた。 被災から現在(12月)に至るまで、絶望感に打ちひしがれながらも、節目節目に多くの人との出会いがあり、お金や物はもと より、公的にも私的にも関係する方面からたくさんの励ましと協力をいただいた。 生活再建も町の復興も緒についたばかりであるが、多くの人々との「絆」を大切にし、一歩ずつ進んでいきたい。 『大規模災害防災等における自治体への要望事項』 1 安否確認について (1)早急な被災者の実態把握のため、障害者計画の中に要援護者名簿の作成を明確に記すこと。 (2)個別の避難計画策定推進を図ること。 (3)災害時要援護者登録した障害者については、その個人情報を必要な福祉団体及び支援団体へ速やかに開示すること。ただし、管理責任は団体が持つことを原則とする。 (4)安否確認等については、視覚障害者が、電話不通時でも利用可能な携帯端末を開発促進し、配布すること。 2 防災・避難 (1)要援護者を速やかに避難所へ誘導できるよう、町内会単位の民生委員等の派遣システムを構築すること。 (2)視覚支援学校(盲学校)及び視覚障害者福祉施設・公共施設を、福祉避難所として利用できるよう避難所指定をし、その指定施設を広報等の媒体で啓発、周知徹底を図ること。 (3)福祉避難所が確保できないときは、避難所内に視覚障害者用の専用スペースを確保すること。 (4)各地域における身近な施設と自治体とが、視覚障害者等障害者緊急避難拠点として利用可能となるよう、支援体制の連携強化を図ること。 (5)防災災害救助法に位置付けられる、避難所及び在宅での生活・移動・心身のケア等をサポートできる障害者災害福祉支援専門員及び支援員の資格制度を創設すること。また、制度   創設に伴う、地域災害派遣福祉チームの組織化の構築化と共に、その人材育成を推進すること。 (6)避難所内での文字情報提供時には必ず音声案内もすること。 (7)視覚障害者等障害者や防災弱者を対象とした地域ぐるみの防災、避難訓練の実施を推進すること。 (8)町内会単位等で視覚障害者等障害者の存在を把握し、それに応じた防災・避難マニュアルを作成すること。 (9)警報・注意報が出された場合、要援護者への緊急避難の情報及び避難移動等の人的支援の行政指示系統等の明確化を図ること。 (10)避難所には視覚障害者が必要とする白杖、点字機、ルーペ等を備えること。 3 仮設住宅・復興住宅支援 (1)仮設住宅建設に当たっては、視覚障害者等障害者の利便性に配慮したユニバーサルデザイン住宅となるよう、一定割合の仮設住宅数を確保すること。 (2)災害公営住宅建設に当たっては、設計段階から視覚障害者等障害者の意見聴取を行うと共に、完成前にユニバーサルデザイン点検が可能となるよう配慮すること。 (3)復興住宅や災害公営住宅への視覚障害者等障害者の入居希望に当 たっては、優先的に入居とすること。 (4)仮設住宅設置においては、地域気候に対応した断熱材等の建設資材や設備備品を整備し、住みよい居住環境の構築を図ること。 4 公共交通機関・視覚障害者の移動 (1)地下鉄構内表示等の消灯をやめ、弱視者等に配慮した最少の減灯をすること。 (2)視覚障害者の自立歩行が困難とならないよう、公共施設や商店街周辺の誘導ブロックの破損及び歩道の陥没等は、早急に補修整備を図ること。 (3)バス路線の変更及び時刻表等の情報提供がないため、視覚障害者等障害者の利用が困難となっている。よって、広報等で早急に情報提供を図ること。 (4)岩手県内のJR大船渡線が、震災により、盛駅から気仙沼駅間が寸断されている。代替交通手段としてBRT方式での開通となっている。交通弱者としての私たちはBRT方式を   暫定とし、2,3年内を目処とする、早い時期の鉄道方式の復活整備を図ること。 5 雇用就労 (1)震災により、自宅や仮設住宅でのマッサージ・鍼・灸業は、患者数が減少しており、収入が激減し、生活に困窮している。   よって、民間企業や県市町村などの公的機関にも震災臨時雇用支援職員枠の中で、視覚障害者の機能訓練指導員・ヘルスキーパー等の雇用を図ること。 (2)仮設住宅での開業は、部屋が狭隘なため、生活スペースや治療ス ペースの確保が困難である。よって、空いている仮設住宅を専用の施術室として開設できるようにすること。 (3)被災者健康維持のためのマッサージが行われている。しかし、無資格者と有資格者マッサージ業とが混在している。よ   って、有資格者(視覚障害者を含む)マッサージ業が脅かされることのないよう周知徹底を図ること。 6 地域生活支援 (1)生活物資の出張販売者、出張金融サービスの促進を図ること。 (2)視覚障害者は外出困難者であることから、心身の維持増進のため、外出支援ガイドヘルパーサービス料の柔軟な対応を図ること。 (3)「視覚障害者用防災グッズセット」を日常生活用具に加えること。 (4)心身のケアなどをサポートする相談員の派遣の充実を図ること。 (5)ガイドヘルパー・ホームヘルパーの利用に当たっては、視覚障害者等障害者の利用時間を、震災特例として拡大を図ること。 (6)視覚障害者の健康管理の目安として開発された、空間線量を音声で知らせる「しゃべる線量計」を日常生活用具給付対象品に加えること。 (7)震災直後は、生活物資の配給及び購入支援等は視覚障害者等障害者には充分でなかったため、今後は在宅要援護登録避難者への自宅支援強化を図ること。 (8)テレビ字幕での情報提供には必ず音声を付加すること。 (9)テレビ・ラジオの難視聴地域が多い岩手県沿岸地区に対して、中波をFM波に変換する装置を設置することが可能なら、富山県の例に 倣ってその手立てを講じ、難視聴地域の解消を図ること。  以上要望する。 『要望書提出の記録』 2月10日 第1回実行委員会 仙台福祉プラザ 3月 9日 第2回実行委員会 仙台福祉プラザ 3月28日 日盲連評議委員会へ報告 ベルクラッシック東京 4月11日 仙台市へ要望事項提出 仙台市役所 4月22日 宮城県へ要望事項提出 宮城県庁 4月25日 岩手県へ要望事項提出 岩手県議会棟 5月14日 福島県へ要望事項提出 福島県庁西棟 5月25日 情報誌編集会議 仙台福祉プラザ 『要望書提出を終えて』 仙台市視覚障害者福祉協会 会長 高橋 秀信 仙台市では昨年から本要望書のための準備が進められ、少しず つ会員の意見を吸い上げて参りました。更に、岩手県、宮城県、 福島県からの要望を加え、ここに34項目に及ぶ要望書が完成致 しました。 想定外の大地震・大津波と、それに連動して起こった原子力発 電所の爆発、そして更には風評被害。私達はあの日、為す術もな く津波に呑まれ、多くの尊い命が失われました。私達視覚障害者 は、幸い逃げ延びた方々も情報不足と行動の自由を奪われ、それ ぞれに大変な思いをしながら、善意ある人たちの手を借りつつ懸 命に生きてきました。その苦難の中で生み出されたものが、この 要望書であると言っても過言ではありません。 要望書提出に当たって4団体の事務局や役員は、これまでに経 験のない事務処理や自治体との連絡調整に追われて参りました が、市議会議員・県議会議員・国会議員の方々のお力添えもあり、 無事に提出することが出来ました。この貴重な経験は、今後色々 な要望を自治体に行うときに役立つだけでなく、東北全体の福祉 に対する考え方、特に私たち視覚障害者が自らを理解し、互いに 力を分かち合うためにも大きい財産になるものと思っています。 要望書提出にあたり、各団体の被災視覚障害者の死亡者数を開 示して頂くようにお願いしておりましたが、その結果を以下に記 します。 〇東北各団体の被災視覚障害者の死亡者数 (平成24年8月31日現在) 東北全体では119人 ・岩手県35人 ・福島県15人 ・宮城県65人 ・仙台市4人 以上の調査に関して、日盲連と4団体の代表・事務局、更に自治 体の方々には御多忙のところ大変ご協力頂きました。改めて厚く 御礼申し上げます。 <編集後記> あの「3.11」から2年と4ヶ月が経ちました。マグニチュード9、最大震度6強という巨大地震とそれに続く大津波。世界 の災害史の中でも近代では最悪の大きな被害となってしまいました。更にそれに続く原発被害と風評被害を含めて、私たちの傷 は未だ癒えてはおりません。人も経済も、そして心さえも傷つき今でも不自由で慣れない場所での生活を余儀なくされている多 くの方々がいます。我々、東盲連東日本大震災視覚障害者復興支援プロジェクトでは、この未曾有の事態を私達が如何に体験し、 如何に助け合って乗り切ってきたかという貴重な資料を未来へ残すため、語り部プロジェクトと共に情報誌として発刊すること に致しました。本創刊号では岩手県内の様子を中心に編集しましたが、今後引き続いて参りたいと思います。 壊滅的被害を受けた仙台市若林区荒浜地区では、高さ8メートルの新しい防潮堤が出来上がりましたが、所々欠けた防風林の他、 辺りには家もなく、ただ、だだっ広い土地が広がっています。現在も他県からボランティアが入り、人々は田畑の整備に汗を流し ています。表面的には随分綺麗になってきていますが、少し地面を掘ると、ガラスの破片や瓦礫が沢山出てくるのだそうです。 仙台市の瓦礫処理は他のところに比べればかなり進んでいますが、そこに住むのは年寄りばかりで、若者はいないそうです。 未来へ向けた新しい家を建ててそこに住もうとは思えないのでしょう。若者たちは皆、都心に移り住んでいるようです。老人た ちは子供たちが帰って来ないのであれば家を建てても意味がない、と仮設住宅に住みつつ細々と田畑を守って生活しているとか。 これまでとはまた違った意味での故郷喪失という将来への不安が浮かび上がっているようです。 本情報誌では、被災地の現状について更に掲載していく予定です。また、被災した団体の情報だけではなく、これまでに起こっ た大きな災害についても紙面を構成していこうと考えています。 各団体からのご協力をよろしくお願いします。 投稿その他については、仙台市視覚障害者福祉協会にお問い合わせください。感想や激励の言葉もお寄せ頂ければ大変嬉しく存じます。 どうぞよろしくお願い致します。 語り継ぐ未来への友歩動=災害からのメッセージ= 第2号 『未だに防災百年の計』 東北盲人会連合 会長 柿沼 正良 皆さん、情報誌「語り継ぐ未来への友歩動=災害からのメッセージ=」創刊号を読んで頂きましたでしょうか。 前号では岩手県の視覚障害者支援ボランティアの活動や、被災者自らの体験ルポが掲載され、更に『大規模災害防災等における 自治体への要望』などが主な内容でした。 被災地を含め日本列島は、今なお時おり僅かな揺れを感じる事があり、あの震災を片時も忘れる事はありません。加えて今年の 夏は西日本を中心に、記録的な猛暑日が続いたり不安定な天候と活発な前線の影響で、局地的に記録的な大雨が降った所もあった りと、自然災害による大きな被害をもたらしました。被害を受けた方々に思いをはせながらも、私達自身あらゆる自然災害に備え、 体験などを聞き記録を読むなどして、災害に備えるべく予備知識を深めていくことが大切です。 さて、情報誌第2号として、今回は3・11あの時の風景(宮城県)や7月6日(土)に復興庁や東京電力の担当者を招いての 「防災研修会」、更に7月26日(金)と27日(土)に岩手・宮城・福島の会場で行われた、語り部登録者に対する「語り部育 成研修会」を実施しましたので、その時の様子を報告します。 期間限定ではありますが、視覚障害者のための「震災ホットライン」がフリーダイヤル、0120−1049−55(トーホク ゴーゴー)として設置されました。日盲連の要望に応えて、「独立行政法人福祉医療機構」が助成事業として運営しています。皆 さん、福祉医療機構に感謝しながら大いに利用しましょう。 この6月に関連二法案として、「改正 災害対策基本法」と「大規模災害復興法」が成立し、災害時要援護者名簿の作成が、市町 村に義務づけられました。 私達が提出した要望書が適正に受け止められ、関連二法案が活かされ実のあるものになるように「復興に命をかける」と言って いる村井嘉浩宮城県知事に対しても、必要に応じて、要望して行きたいと考えています。 そのためにも常に復旧復興の状況を見極め、大震災関連のマニュアルや資料 体験談などを参考に、日頃研修を心がける必要があると思います。 それこそが「備えあれば憂いなし」、という事につながるのではないかと思う今日この頃です。 3.11あの時の風景(宮城編) 『東日本大震災を体験して』 宮城県視覚障害者情報センター職員 伊藤甲一 平成23年3月11日(金)午後2時46分、マグニチュード9の巨大地震発生その後の大津波。尊い多くの人命、築き上げら れた貴重な財産が失われ、そして2年と半年が過ぎましたが、「人」「地域」により「あの日」のままの方も。というのが「今」の状況です。 当時を振り返りますと発生時、当センターには利用者1名、付添1名、奉仕員7名、職員6名の計15名(うち、視覚障害者2名)が在籍しておりました。 利用者の方は付添の方と1階の閲覧室にて読書をしており、奉仕員7名のうち3名は2階と3階の3重扉の録音室にて録音中、2名は2階の小部屋でデイジー図書の編集中、1名は2階で下調 べ、1名は1階で録音機器の保守点検の奉仕活動に従事しており、職員はそれぞれの部署で業務中でした。 予測されていた「宮城県沖地震か?」とは言え、揺れが大きく、止む気配がありませんでした。通常は揺れが止まってから、次の 行動をとるのですが、揺れがとまりません。一人で3階まで動き、屋外退去指示の声掛けをしていました。「停電」「廊下は波打ち」 「防火扉はバタバタと」「機器の落下音」等々の中。録音室の3名は扉が閉ざされたまま「うずくまって」いました。 扉は3重でしたが開けることができたので、「半ば強引に」連れ出し、残りの方も含め全員一人のけが人もなく、建物外へ避難 することができました。今思うと「ゾッ」とするものがありますが、あの場面では「あの判断しかない」と今も思っております。 「外」は「激しい雪降り」になりました。ラジオと携帯電話で災害状況は把握できたものの、個々の家族の様子は不明のまま、 帰宅できる交通手段も不明でした。しかし、センターは暖房もなく、食料等の備蓄もありません。私と男性職員が残り帰宅指示を 出しました。全員、無事に帰宅できたと知ったのは、かなり時が経ってからでした。この頃、あの時の指示は「あれで良かったの かどうか」と。でも、やむを得なかったかなと。 残った二人で施設の確認をしたところ、建物の倒壊は免れましたが、壁、床の無数のひび割れ、暖冷房用ボイラー設備の全壊そ して図書ラックの倒壊により約4万巻のカセット図書が散乱、机上のパソコン等の落下等々を確認し、停電のため真っ暗そして余 震も頻発している状態と県の担当課に報告しなければならないので県庁に向かいました。県庁は非常電源装置により明りがあり ましたので気持ちも安心しました。 しかし、写されているテレビの映像は非常に悲惨なものと多くの避難者が庁舎全体に溢れていました。 公共交通もすべて止まりましたので、その夜は見慣れた風景も一変した中を約1時間40分ほど掛け帰りましたが、我が家も非常に悲惨な光景でした。 震災のあった日は金曜日でしたので、月曜日から復旧業務を行ったのですが、多くの奉仕員さんの手を借りることができ4月1日には利用者の方に貸し出し業務を再開することができまし た。建物等の災害復旧工事も平成24年6月には終了し、現在は、ほぼ震災前の状況で業務を行っております。改めて「絆」を強く思い感謝申し上げます。 次に私個人について書かせて頂きます。私は、今回の災害で報道も多くなされた南三陸町志津川の出身です。昭和35年のチリ地震津波を10歳で経験しております。地球の裏側で発生した地 震が、津波を約22時間かけ日本に上陸させ日本全体で死者・不明142人、家屋全壊・半壊3,500戸余が被害を受ける惨事となりました。その日発せられた津波警報は津波襲来2時間後、 午前5時20分ということでした。 しかし、我が家では避難準備のため親父、お袋は残りましたが、兄弟3人は4時頃には高台の高校の校庭に避難した記憶があり ます。避難できた要因は、隣が車の修理工場で、日々早朝から仕事で賑やかなのですが、その日は更に賑やかだったので、お袋が 様子を見に外へ出ようとしたら庭に「ヒタヒタ」と海水が来ていたのです。警報のサイレンが鳴らされた時は、記録によると最大 6.3メートルの津波が襲来し、住んでいた家屋も全壊ではありませんが、屋根と柱だけが残り、隣の修理工場から流失した車両 が数台入っていたという記憶があります。幸いにも家族は全員助かりましたが、両親は荷物とともに流され、約1日行方不明でし た。夜中に避難所で再会することができました。 志津川では41人の方が亡くなられ、親父の妹も忘れ物を取りに戻り犠牲になってしまいました。 私も、海の水が殆ど無くなるという様子を見るのは初めてだったので、避難場所から下に降り河口の近くで見ていて「壁のよう な真っ黒い波」に追われた経験をしました。 この津波を契機に、1階建ての住居に2階を増築し東日本大震災発生まで住んでいました。 なお、我々が避難した高台も東日本大震災の大津波では完全にのみ込まれてしまったとのことです。 私の災害経験はこの後も続きます。 昭和53年6月12日「宮城県沖地震」も経験しました。この時は、旧宮城県庁舎西3階において勤務中でした。ロッカーや机 が移動し、小ロッカーの落下により机が二つに割れたところを目撃しました。この震災後、県庁ではロッカーの積み重ねは禁止となりました。 またまた東日本大震災1年前の平成22年2月28日チリ地震津波を志津川で経験してしまいました。 この日は日曜日で帰省していました。お袋が1年ほど前から介護老人保健施設に入所していたので週末は施設訪問を行っており、この日も9時頃、 施設に到着し会話をしていたところ9時30分頃サイレンが鳴り「大津波警報」が発令されたので、急いで自宅に戻り、2階に位牌や テレビ等の荷物を避難させ仙台に帰って来ました。翌日、地元新聞「河北新報」を見たところ、私が常に自転車でお袋の施設に行くために 利用する道路と牡蠣加工用施設の一部が水没している 写真が掲載されておりました。 この津波では人的被害はありませんでしたが、建物浸水被害や養殖施設被害が発生しました。 この1年後、勤務中に未曾有の大災害・東日本大震災に遭いました。職場復旧、交通手段確保困難等々により志津川の悲惨な状 況、義弟の行方不明は刻々入って来ましたが、帰省出来たのは約3週間後でした。義弟捜索に向かっている途中で発見の報が入り 対面することができました。昭和35年の津波を経験し2階を増築した家屋は跡かたもなく消えていました。 東日本大震災後、日本盲人福祉委員会が「災害時の視覚障害者支援体制マニュアル」「災害時の視覚障害者支援者マニュアル」 日本盲人会連合が「視覚障害者のための防災・避難マニュアル」日本盲人社会福祉施設協議会情報サービス部会が「みんなで知っ 得[助かる][助ける]」(増補版)を発行致しました。「みんなで知っ得[助かる][助ける]」(初版)は、平成22年9月1日に 「毎年のように起こる災害に対し視覚障害者自身が災害から「助かる」ためには、支援者として視覚障害者を災害から「助ける」 ためにはどのような行動をとらなくてはならないかを知ってもらう」ことを目的として平成7年、阪神淡路大地震を教訓に発刊 されました。当センターにおいても99%の確率予測がされていた宮城県沖地震への備えのため利用者の方に、毎月提供している 情報誌「視覚情報センターだより」でこの冊子の内容をシリーズで提供しておりましたが、掲載4ヶ月後に大災害に遭遇してしま いました。冒頭にも述べましたが当情報誌も3ヶ月休刊せざる得ない状況でしたが、5月号から継続して掲載し平成24年4月号 で掲載を終了致しました。災害は何時起きるか分かりません。改めて東日本大震災を教訓とした日本盲人会連合発行のマニュア ルを利用し平成24年7月号から平成25年5月号までシリーズで掲載し啓発を行って来ました。マニュアルは利用されなけれ ば意味がありません。 また、この大震災を記憶するため写真集を始めとして多くの著作物が発刊され当センターも含め多くの点字図書館等で点訳、音 訳化しております。ご利用願います。当センターにおきましても内陸部に住んでいる利用者の方から「津波」について知りたいと いうことで河北新報社発行の写真集「3・11大震災 巨大津波が襲った」をデイジーで製作した図書もあります。 最後に県内の団体で発刊された冊子から引用させて頂き終わります。「宮城県沖地震から35年、日本海中部地震から30年、 阪神・淡路大震災から18年、また、岩手・宮城内陸地震から5年、東日本大震災から2年が過ぎようとしています。私たちにと って、惨事の記憶は続いており、私たちの置かれている現実は、今も、災害リスクが予想されており、不安を完全に払拭すること はできません。また、特に、南海トラフや首都直下型などの被害想定が、衝撃的な内容となっており、他の地域の仲間のことも心 配です。」 体験ルポ 盲人たちの「3.11」闇の中あの大津波からどう逃げたのか・・・ この文は本人から許可を頂き、アエラから抜粋し編集しました。 金子たかし 光も色もない世界で、「津波の恐怖」と、どう対峙したのか。 「壊滅した故郷の街」を頭の中にどう描くのか。 宮城県東松島市の金子たかしさん(65)はそのとき、自宅2階にあるデスクトップのパソコンの前に座っていた。金子さんの パソコンには、盲人用の音声ソフトが組み込まれている。パソコンが発する合成音声で、視覚障害者団体などからのメールの文面 をチェックしていた。 波に揉まれながらも白杖離さず 最初に、小さな揺れを感じた。「これで終わりかな」。少し安心した途端、激震が来た。外に逃げなければ。階段の手すりを伝っ て1階に下りた。盲人に欠かせない白杖を手探でさがした。あれほどの激しい揺れでも家屋に大きな影響はなかったのか、 白杖はいつも置いている玄関わきにあった。それを折りたたみ、右手に 持った。そこに不気味な「音」が迫ってきた。 「ゴゴゴゴ……」と重機が近づくような音がした。同時に海岸に面する南側の窓ガラスがガチャーンと割れる音が聞こえた。 「津波だ!」 とっさにそう思った。 一人暮らしの自宅は石巻湾の海岸から直線距離で300メートルほどの場所にあった。 「シュー」という音がした。と思うと、一気に海水が胸元までくるのがわかった。体が海水ごと山側の方向に押し流された。 無意識に呼吸をとめた。立ち泳ぎのような姿勢のまま濁流に身を任せた。水中で音は聞こえず、ただ、車のガソリンなのか、油のに おいが強かった。どのくらいたっただろうか、気がつくと、海水が引いていた。両手両足で四方を確認すると、頭の上にトタンの ようなものがあった。手で少しずつかきわけていった。 修羅場の中でも、なぜか白杖を最後まで握っていた。それを伸ばし、周りを探った。障害物は何もなかった。それで残骸の一番 上に出られたのがわかった。 ずぶぬれのまま残骸の上に腰掛け、じっとして体力の消耗を防いだ。やがて聞き覚えのある女性の声がした。 白杖で残骸をがんがんたたき、「助けてください!」と叫び続けた。 女性は近所の民生委員だった。彼女に助けられ、近くにあったもともと空き家の一軒家に避難した。「とりあえず今夜はここで」 と彼女に手を引かれて階段を上がった。空き家の1階部分は津波にやられていたが、2階はかろうじて無事だという。夜はこの2 階で一人で寝た。幸い布団があり、下着一枚で毛布にくるまった。 目が見えないことに加え、勝手もわからない家で、ただただ、じっとしているしかなかった。水も食料もない。小用を足すときは、 手探りで窓を開けて外の階下へ放った。熟睡できず、うつらうつらした。余震の度に家全体がギシギシ音を立てた。それ以外は、 物音一つしない静かな夜だった。 翌朝、「金子さん、いますかー」という声が、外から聞こえてきた。民生委員の女性が自衛隊に連絡してくれていた。救出後、 避難先で医師に診察してもらうと、肋骨が4本折れていた。激流にのまれていた時、残骸にぶつかり、強く圧迫された。その際に 骨折したらしい。 3月下旬に姉がいる栗原市のアパートに引っ越した。 30代後半に緑内障を発症し、徐々に視力をなくし7年前に完 全に失明した。 自宅のあった野蒜地区は、800人を超す死者が出た東松島市の中でも津波被害が最も大きかった地域だ。地区では300人を 超す遺体が見つかっている。金子さんの知り合いも隣人を含め10人以上が亡くなった。そうした中で、目の見えない金子さんが 助かったのはなぜか。 「失明する前、趣味でスキューバダイビングをしていました。その時に、水の中では何をしても無駄だから、水に逆らわず無駄 な動きだけはするなと教わりました。そうした経験がいきたのかもしれません」 『どんなときも前を向いて』 立身憲一 仙台に住んでから1年半が過ぎ、そして、あの3.11から2年以上が過ぎました。長かったような、いや、あっという間に過 ぎ去ってきたかもしれません。確かに失ったものは大きい、しかし、厳しい言い方かもしれませんが、それを考えてもどうなるも のでもないだろう・・・。そうしていつまでも悔やんでいるのなら、生き延びた自分がもっと強く前を向いて生き延びてみろ・・・ そんなふうに自分に言い聞かせながら日々過ごしているように思います。 一昨年4か月ほど横浜の叔母のところでお世話になっていました。横浜での生活は、着いた翌日には横浜視障協の理事さんと 会うことができ、点字版や白杖もいただき、また、いろいろとアドバイスをしていただきました。そして次の日には磯子視障協の 会長さんと会うことができました。その話の中で、「実はうちで障害者の通所施設の事業をしているので遊びに来てみませんか」 といわれ、早速、見学を兼ねて行ってみました。その施設は、身体、知的、精神障害者が共に軽作業やさまざまな活動をしている ところでした。私もその施設におせわになることになり、月曜日から金曜日まで通所し、ときにはバスや電車でいろいろなところ にいきました。そのたびに思ったことは、さまざまな障害者の中で一緒に行動するうちに、その明るさと力強さを感じさせられました。 あるときその施設で防災訓練がありました。地域の皆さんも参加してのものです。「避難訓練ってどこいくの」という声もあり ましたが、なんとその場所は高台、しかも不規則な階段、目的地は途中の小さな公園とはいえ高さは約25メートル。この階段は 上まで登りきると200段ほどあり、ときには階段を利用してどこからか走ってきては上り下り数回、走り去ってゆく人がいるそ うです。その人は現役時代のプロボクサー内藤選手とのことでした。さあいよいよ避難訓練開始。ボランティアの皆さんも真剣そ のものでした。ほとんどの人が高台に到着し、最後の人を待つだけとなりました。その人は30代前半、常には車いす生活、しか し義足をつけ肩をかりながら懸命に上ってきます。到着した時には拍手が起こりなぜか自分は涙があふれてきました。 そんな日々を過ごしているうちに自分はこのまま横浜に住むのかなあという思いもちらほらおもいはじめていました。しかし、 やはり自分の中には宮城、そして60年も過ごしてきた、あの生まれ故郷に未練がましく思いがあるのも当然のようでした。昨年 6月の半ばごろ仙台で部屋が空くんだけどどうするという電話があり、話の中でいろいろな手続きはどうなんだろうとか、宮城 に戻っていれば何とかなるだろう、そんな感じで結局、全てをお願いし、7月の末には横浜から仙台に移り、そして8月1日から いよいよ仙台での生活が始まりました。まずは荷物の整理から役所での手続きそして近隣の状況などなど視障協はもとより盲導 犬訓練センター、さらにはアイサポート仙台の皆さんには大変お世話になり、それが縁でさまざまな活動に参加させていただいて おります。 少し大げさな言い方になりますが、仙台の東西南北をウォーキングしながら語り合い探索して、その歴史の奥の深さを堪能してお ります。いつの日か、ゆっくりでいいから生まれ育ったあのふるさとの面影を心の底から笑顔で話すことができたら・・・とそん な夢物語を描いている今日この頃です。 『平穏な日々の大切さを実感』 塩釜市 佐藤弘子 平成23年3月11日。私は普段と変わりなく、冷え込みの厳しい朝を迎えました。その日は金曜日で、我が家ではホームヘル パーの訪問日だったのです。まずは、家事全般のサポートを受け、その後、近くのスーパーで4日分ほどの食料品を中心とした買い 物も済ませました。そして、茶の間でのんびりしていた午後2時46分、それまで経験したことのないあの激しい地震に襲われた のです。 観音開きの食器戸棚からは瀬戸物が次々と床に散乱し、主人がパソコンをしていた奥の部屋では、本棚から全ての点字本が、部 屋中に飛び散りました。 それ以外にも、棚の上のあちこちから荷物が落下して、それこそ足の踏み場もない有様となりました。地震による激しい揺れは、 4分ほど続いたでしょうか? でも私にはその揺れが、5分も10分も続いているように感じられました。 「助けてぇぇーっ!!」とか「やめてぇぇーっ!!」などと夢中で叫んでも、家の中をメチャメチャにしながら長い間揺れ続けた 地震でした。 揺れが収まった後、私はブルブル震えながら電話のそばへ行きました。ヘルパーステーション・親戚宅・友人宅など思いつくままにダイヤルしましたが、 すでに電話はどこにも通じませんでした。 塩釜市の防災無線からは「ライフラインがストップするので、とりあえず水を確保しておくように」という放送が、繰り返し聞 こえます。それを聴いて私は、風呂掃除を済ませた湯船にまだ水を貯めていなかったことを思い出しました。瀬戸物やガラスの破 片が山のように積み重なっている廊下を、私は手探り足探りでどうにか風呂場に辿り着いたのです。すぐに水道の蛇口をひねりま したが、蛇口からはすでに、一滴の水も出ては来ませんでした。 このような状況に見舞われたら、私たち全盲夫婦にはどうすることも出来ません。主人は、点字本の大群に押しつぶされそうな 格好で奥の部屋から出られないし、私は電話も水も使えない台所でただ呆然とするばかりでした。そのまま二人は別々の部屋でろ くに会話もしないまま、4時間あまりを過ごしたのでした。夜も7時を回ると冷え込みは更に厳しく、外では雪が降っているよう です。主人と私だけではあちこち動き回ることも叶わず、部屋がどのように乱れているのかが確認できません。このまま布団も敷 けずに、眠れない一夜を送ることになるのかしら?明日は誰か来てくれるのかしらなど、そんな思いが頭の中をグルグル回ってい た数時間でした。 夜の 7時半を過ぎた頃でしょうか?「佐藤さん、大丈夫?ヘルパーだよ!」と言いながら、玄関のドアをドンドンと叩く音がし ました。ヘルパーステーションの所長とケアマネージャーが、二人で我が家に来てくださったのです。そして、家中に散乱してい る残骸の中から、主人と私を外に連れ出してくれました。私ども夫婦は身の回り品もろくに準備できず、着の身着のまま(きのみ きのまま)でケアマネージャーの車に乗り込んだのでした。塩釜にも4メートルを超す津波が押し寄せたこと、死者や行方不明者 が続出していること、大変な交通渋滞で、市内は混乱していることなど、車の中で災害発生後の多くの情報を教えていただきまし た。「何百人も避難している小学校や体育館よりは、ゆっくりしてもらえるかも…」というお二人の相談がまとまり、主人と私は 塩釜市の社会福祉協議会が運営している老人施設に、しばらくお世話になることにしました。その施設はショートステイとデイ サービスを兼ね備えているところでした。収容人数は10人程度という「小規模複合施設」なのだそうです。 「まつぼっくり」という老人施設に到着してから食べた菓子パンとミカンとバナナの味は、今も忘れられません。 「もう大丈夫だよ」と優しく声をかけてくださる職員さんたちの言葉からも、 温かさが伝わる思いでした。その日から2週間ほど、私たち夫婦は認知症のお年寄り10数名と寝食を共にすることになったのです。 5分も経たないのに時計ばかり気にして、職員さんに今の時間を何度も尋ねるお爺さんがおりました。そうかと思えば、夜も昼 もひたすら泣いてばかりいるお婆さんもおりました。初めて出会った心の病を抱えたお年寄りとの生活に、当初は私もかなり戸 惑いを覚えました。それでもその後、その戸惑いを取り払ってくれたのは、私たち避難者を親身になって明るくサポートしてくだ さる職員の皆さんでした。ガスと電気が使えないので、石油ストーブが大活躍です。 必要最小限の水は、男性の職員さんがポリタンクを担ぎ、どこからか毎日調達してきてくださいます。食器が洗えないので、 食事の際には紙コップやアルミ皿にご飯と味噌汁とおかずが盛りつけてありました。職員の皆さんは石油ストーブを駆使して、い つも私たちに暖かい食事を提供してくださいました。この配慮にも、ほんとに頭が下がります。 私たちが避難所暮らしをしている間に、ホームヘルパーの手配で我が家では「災害ボランティア」の手助けを頂きました。おか げさまで、足の踏み場もなくなっていた我が家はきれいに掃除され、私たちの帰宅を待っていてくれたのです。それでも、2週間後に 我が家に戻った私たちは、その後も何かと不自由な生活を強いられました。近所に給水車が来ても、全盲同士で勘の悪い私た ちなので水がもらえず、何度も落ち込みました。それでも、そのたびに同じ町内会のどなたかが、水を差し入れしてくださったの です。あまり水を使わないで済むようにと、米をといできてくださったおばさんもおられました。ご自宅で作ったカレーライスを、 お裾分けしてくださったかたもおられました。日頃はそれほどお付き合いもなかったにもかかわらず、近所の皆さんの心配りに涙 がこぼれました。 あの震災から27日後の4月7日に襲った地震で、我が家ではついに、点字本を並べてあったスチール製の本棚までメチャメ チャに壊れてしまったのです。そこで私たちは、趣味で買い集めていたカラオケの歌詞集や料理のレシピ本など、100冊にも及 ぼうかという点字本を、本棚ごと処分してしまいました。これらの本を処分せざるを得なかったことが、私どもにとっては震災で 被った一番の被害だったのかもしれません。 あの日から、2年半が過ぎようとしております。私なりに防災用品の準備を進めながら、我が家にはとりあえず平穏な日常が戻 りつつあります。津波からの被害を免れたのは不幸中の幸いでしたが、あの恐ろしい体験を通して、平穏に過ごせる日常生活がど れほど大切なことなのかを、改めて日々実感している私です。 【実行委員会の記録】 5月24日 第1回語り部の会 釜石市 開催地:コミュニティー大ホール 参加者:花巻市立南城中学校1年93名 5月25日 情報誌編集会議 第1回 開催地:仙台市福祉プラザ 6月 5日 情報誌編集会議 第2回 開催地:仙台市福祉プラザ 7月 6日 防災研修会 開催地宮城県立視覚支援学校会議室 参加者:東北各地より62名。 同日 第6回プロジェクト実行委員会 同日 第1回被災視覚障害者心のケアと 語り部事業 委員会 7月14日 第2回語り部の会 名古屋 7月15日 第3回語り部の会 長野県 7月26日27日 語り部育成研修会 開催地:岩手県・宮城県・福島県 参加者:23名 7月27日 第7回プロジェクト実行委員会 開催地:仙台市 『平成25年度防災研修会報告』 仙台市視覚障害者福祉協会 会 長 高橋秀信 去る7月6日(土)13時より視覚支援学校会議室において行いました。 参加者は、日盲連事務局・東北の被災した視覚障害者団体と付き添い者も含めて62名。 日盲連・東盲連の代表の挨拶の後、提出した要望書にかかわる経過報告と今後の課題について報告がなされた。 内容については以下のような概要であった。 1 要望書提出の総括 私たち被災視覚障害者団体は、被災地各自治体首長に対し要望書を提出した。これにより、東日本大震災のみならず、今後発生 が予想される大災害・天災への理解が深められた。 この度の要望書の特徴は、私たち視覚障害者だけでなく、広く障害者の視点にたった要望・提言がなされたことである。 また、広く社会に受け入れられる内容であった。特に、報道機関に対して記者会見を開催する等、当事者団体の考え方と行政施策とのミ スマッチが明確となり、当面する課題等を論議する良い機会となった。これは大きな成果である。 これからの私たちの活動・運動が行政施策をより良いものとするための指針となるのではと期待している。 2 成果と経過 (1)要望書提出日 平成25年4月11日仙台市、22日宮城県、25日岩手県、 5月14日福島県にそれぞれ提出。 (2)経過 要望書の概要は、安否確認4項目、防災避難10項目、仮設住宅および復興住宅支援4項目、 公共交通機関・視覚障害者の移動4項目、雇用就労3項目、地域生活支援9項目、計34項目である。 (3)担当官との懇談における追加要望 仙台市:避難所に視覚障害者が必要とする白杖・ルーペ等を常備。 福島県:視覚障害者生活支援センター職員の増員。 岩手県:岩手グラフの情報誌に会の情報の掲載。 宮城県:視覚障害者情報センターの建て替え。 また、視覚障害者の被災死亡者数の開示を求めた結果、福島県 15人、宮城県65人、岩手県35人、仙台市4人の報告があり、改めて大震災・大津波の大きさを痛感した。 3 今後の課題 (1)平成25年6月17日に「改正災害対策基本法」と「大規模災害復興法」の関連二法案が成立し、災害時要援護者名簿の作 成が市町村に義務づけられた。しかし、住居地での町内会単位等での避難誘導システムの構築、要援護者名簿がより実効性の あるものとなっていくか、進捗状況を注視しながら、課題を探らなければならない。 (2)提出した要望書が行政施策にどういかされ、進捗して行くか、引き続き状況を見守り、必要に応じて提言を加える必要がある。 また、各自治体からの文書回答を精査し、第2次要望書の提出も検討する必要がある。 (3)福島県における放射能被害は長期にわたるものであり、私たちが今後どう支援していくかが重要である。 また、この会には日盲連事務局の働きかけにより、復興庁から1名、東京電力から2名の参加者があり、懇談が行われた。 その中で浮かび上がってきたことは、視覚障害者の現状を理解されていないことからくる、情報保障が行われていないこと。 特に、書類等の代筆が全くされていないこと。説明が不十分であること。 等であった。この点については復興庁・東京電力に対し、具体的に今後要望を出していくことになるであろう。改めてこの会 を通して感じたことは、福島においてはまだまだ避難生活が続いていること、原発が廃炉になるまでは30年以上かかること。 そして、被災者は高齢の方が多く、ほとんどの方は、自宅には戻れないであろうということ。現在でも家族と離れ離れの生活 が続いていることである。これから、この現状に対しどんな支援が必要なのか、そして、二度とこんな被害を出さないために 何が必要なのか、我々、視覚障害者だけでなく、国民全体として考えていかなければならない。 『語り部プロジェクト活動がスタート』 社会福祉法人岩手県視覚障害者福祉協会 理事長 及川清隆 いよいよ5月24日から東日本大震災の体験を語り継ぐ語り部プロジェクト活動が、岩手県釜石市を皮切りにスタートしました。 奇しくもこの日は、67名の死者を出したチリ地震津波から53周年目の記念日にあたる日でした。防災、震災、大津波災害 を考えるのに偶然良い日だったのです。 「釜石市の中村さんに語り部をお願いしたい」と電話依頼があったのは、宮沢賢治の古里でもある岩手県花巻市立南城中学校1学年93名の学校からの依頼でした。 依頼の希望は「午前に語り部の話をお聞きしたい。午後に中村さんが避難した避難路を一緒に歩いて体験したい。 そのあと中村さんが避難した千寿院という第一避難所で、震災大津波を撮影した映像を見て、住職さんからの講話をお聞きしたい」というのでした。 語り部の会場は、釜石市小佐野コミュニティー会館3階大ホールで開催しました。 午前11時過ぎ、中村さんが語りはじめました。その内容はこの創刊号に中村さんが投稿掲載されています。少し触れますと、 話始めて30分ぐらい過ぎたでしょうか。大津波に後ろから追いかけられた死の恐怖の、体験が語られました。 「治療院からかつての避難場所まで直線にして200メートルから300メートルぐらいあるのですがね、4人が連結して逃げ ましたが後ろから津波が迫っているのが分かりました。高台にいた人たちからは、走れ・急げ・早くしろと絶叫の声が聞こえてき ました。」と語った。会場は水を打ったように静まり返っていました。 私は、その不安と恐怖の思いが本人から直接聞くことがこんなにリアルに強く感じるとは考えていませんでした。本当に怖かっ たのだろうと想像にあまりあります。最後に語ったのは「皆さんの周囲でどうしても一人で避難できない人がいます。お年寄りや 障害者に普段から気にとめていただき、避難を手伝って上げて下さい。お願いします。」と中村さんの日ごろ地域に願っているこ とを話して一時間余りの語りが終わりました。 今回の語り部活動の特色は、語り部の中村さん自身の避難路を共に歩く体験と、大津波の襲来する生の映像や千寿院住職の講話 をお聞きすることでした。そこで、前後するかも知れませんが少し触れておきたいと思います。午後1時半過ぎだったと思いますが、 千寿院住職さんの講和がはじまりました。 「少し辛いかも知れませんし、見るのが怖くなるかもしれませんが、釜石テレビのカメラマンが押し寄せる津波を目線で撮影したものと、 高台から町が津波で流され破壊されていく様子をここに避難してきた市民が撮影したものがありますので、15分ぐらい見て下さい。」と言って ビデオが回りはじめました。 私には映し出される画像は分かりませんでしたが、画像と一緒に録音されたザザーっという音や、ゴーゴーという津波の音に混じって「早 く逃げろ、あー駄目だ、早く早く」などという周囲に大津波が迫ってくる死への恐怖が音声で伝わってきました。一方生徒さん は「あ」という声にもならない声、「あー」とまたもや声がどよめくのが聞こえてきました。生徒さん達には、言葉とは異なって 画像は相当の衝撃を感じたのではないかと想像して聞いていました。 住職さんから「いかがでしたか?」と講話が続きました。 「釜石の奇跡を話しましょう。校庭で先生が点呼を取っていたら『先生こんなことをしていたら危ないよ』と言って逃げたとい う話です。今回の大津波は3メートルの津波が来るという警報をあまく見たのです。本当は地震から30分後に10.6メートル の大津波が来たのです。逃げる時は逃げる、こだわりやあまい考えをしない、迷わず逃げる、誰かを助けようとして戻った人はほ とんど助かりませんでした。地震が来たら津波が来る。家族を捨てても逃げること。家族の誰かが残れば何かを伝えることができます。 それで亡くなった方も分かってくれます。皆さん、とにかく命を大事にしましょう」と言い、講話が終わりました。 読者の皆さんはお気づきになったと思いますが、語り部の中村さんが話された「周囲のお年寄りや障害者の避難を助けて上げて ください」と言ったことと、住職さんが話された「家族を捨てても逃げなさい」、このお二人のお話をどう受け止められたでしょうか? 終わりに、生徒さん93名は、中村さんが話し終わった後と、住職さんの講話が終わった後に感謝と鎮魂の歌として、ゆずの 「栄光の掛け橋」を合唱してくれました。 中村さんが話される前に合唱の練習がありましたが、声はやや元気がなくて少しハーモニーが乱れていたように聞いていました。 しかし、中村さんの話が終わった後は練習とは一変して声も大きくそれぞれのパートの調和が取れていてすばらしい合唱で感 動しました。私はその合唱を聞いて「この93名の若人に中村さんや住職さんの心は伝わった」と確信して釜石市を後にすること ができたことをお伝えして結びといたします。 『震災語り部をお招きして』 名古屋市視覚障害者協会 会長 橋井 正喜 うだるような猛暑のなか、開催された日盲連東海地区夏期研究集会に、岩手県大槌町より震災語り部として、藤原美幸氏にお越 しいただきました。 東日本大震災から2年数ヶ月が過ぎ、少しずつではありますが、私たちの脳裏からあの大惨事が消え去ろうとしています。130 余名の参加者は藤原さんの話を待ち望んでいました。 彼女は静かな口調で家族構成から話し始めました。震災発災時から避難途中での家族との再会、避難所の寺院から裏山を次ぎへ の避難場所、そこから見える街の火災、一つのおにぎりを6人で一口ずつ分け合ったこと。彼女の家族は運がよく親戚の家に避難 し、数日後には被災者らのマッサージのボランティアを始めたと言われました。 被災された当事者同士、身体をマッサージでゆるめていただいたことで、彼女に胸の苦しみも吐露されたようです。命からがら 逃げる途中で一人一人、心の奥に閉じ込めておきたいことを彼女の手の温もりが伝わり自然に話されたのでしょう。 発災時は、偶然が重なり、命が助かった人、亡くなられた人それぞれの3.11があり、彼女も勤務先から自宅に残るご主人や 娘さんたちを心配し戻る途中、偶然に出会い、難を逃れたようです。この偶然がなければ津波が押し寄せる自宅に戻ろうとした彼 女は名古屋には来ていなかったことでしょう。 私たち視覚障害者は安全、安心した街づくりを願い、より良い生活を求めて暮らしています。日頃から隣人や地域とのつながり を大切にすることにより緊密なお付き合いが必要だと気づかされた時間でした。 震災語り部に登録された方々が、命の大切さ、日頃からの防災知識の大切さ、そしてこの度の有様を語り続けていただきたいと 切に願っています。 <今後の語り部事業> 10月13日(日) 開催地:山形県身体障害者保養所 東紅苑 10月19日(土) 開催地:秋田県心身障害者福祉センター 10月20日(日) 開催地:岩手県民情報交流センター 11月10日(日) 開催地:埼玉県障害者交流センター 11月24日(日) 開催地:新潟市総合福祉会館 11月24日(日) 開催地:水戸市三の丸ホテル <編集後記> 東日本大震災から2年半が過ぎました。宮城県内も少しずつ復興していることを感じられるようになってきましたが、瓦礫の 撤去率は宮城県で70%以上、岩手で60%以上、福島は原発の関係で40%を割っているそうです。宮城と岩手は今年度中に瓦礫 の撤去は終わる見込みですが、福島は除線処理の関係から、めどさえたっていないようです。 現在でも20万人以上の方々が仮設住宅や借り上げ住宅に住み、不自由な生活をしいられています。復興住宅の着工が予定より 遅れているためですが、そんな現状の中で被災者のストレスによる健康被害が心配されています。我々の仲間の中にも仮説や 借り上げ住宅に住み窮屈な、そして、家族を失ったり、離れ離れとなり、さびしい思いをされている方がおります。 第2号では宮城県の状況を中心に編集しました。地震と津波の恐怖感や被災者の不安が伝わってくるのではと思います。そんな 中でも前向きに生きていこうとする思いが感じられるのではないでしょうか。 私は協力してくれた方々のおかげで避難所暮らしは免れましたが、聞くところによると視覚障害者の避難所での暮らしは、ま さに情報障害者だったそうです。情報は掲示板や紙では配られるが読んでくれる人がいない、食料の配布などで行列を作っていて も、それがなんのための行列なのか、どこに並ぶのかもわからない。トイレの場所や使い方がわからない等、困った経験をした人 たちがいます。特に、中途半端に見える弱視の人たちは障害者とはみられず、避難所での手伝いもできず、白い目で見られ、つら い思いをしたと聞きます。 また、近頃出た報告によると障害者の被害は一般人に比べて2倍ともいわれています。我々障害者は自ら行動し、次の震災時に は障害者の被害を最小限にくい止めなければなりません。被災した方で障害者協会に入っていない方もたくさんいらっしゃいま す。そんな方々も含めて一人でも多くの命を救い、早く和やかな日常が遅れるように、取り組んでいきましょう。それが我々に今 できることではないでしょうか。 日本は、各地で地震・津波・台風・洪水・火山爆発等、たくさんの災害が予想されています。各自で水や食料を備蓄し、地域の 方々とのコミュニケーションを常日頃から図っておくことが重要です。 第3号では、いまだ原発事故による汚染水問題解決をみていない福島県の様子を中心に編集する予定です。 語り継ぐ未来への友歩道=災害からのメッセージ=第3号 巻 頭 言 『災害は忘れた頃にやってくる』 公益社団法人 福島県視覚障がい者福祉協会 会 長 阿曽 幸夫 とかく、昔から「災害は忘れた頃にやってくる」と言われますが、今年の福島県は何事もなかったように穏やかな新年を迎え、 私も初日の出を拝むことができました。 また、このたびの東日本大震災と東京電力福島第 1原発事故におきましては多くの皆様方から心温かな義援金や、ご支援・励まし のお言葉をいただき、当事者として厚く御礼申し上げる次第です。 さて、今回の情報誌「語り継ぐ未来への友歩動 災害からのメッセージ」第3号では原発に悩む福島県について被災者の体験を 中心にその思いをお伝えいたします。 思い起こせば月日の経つのは本当に早いもので、東日本大震災と福島第 1原発事故から早2年と11カ月が過ぎてしまいまし た。当日私は患者さんの治療が終わったところで、それは平成23年3月11日午後2時46分のことです。「ゴーゴー」と地鳴 りをたてて建物はきしみ、瓦は落ち、地面は地割れをおこし、立っていることのできないほど、かつて経験したことのない激しく 揺れる大地震でした。 そして、そのころ太平洋側では異変が起きていたのです。地震から40分後の3時27分高さ4mの津波が押し寄せ、それから、 8分後の午後3時33分には高さ15mに達する第2波の津波が福島第 1原発を襲い、飲み込み、無残にも建物は壊れ、電気が 止まり、冷やすすべを失った 1号機の建屋は、3月12日午後3時36分、あってはならない水素爆発を起こしてしまいました。 第 1原発の想定していた津波の高さは5.7mに過ぎず、この3倍もの津波が押し寄せたことになりました。不幸にも放射能は風 に乗って広い範囲に拡散してしまいました。その爪痕は復興の見通しのつかないままいつまでも残るのでしょうか。 今になってようやく私の家の周りも除染が始まりました。建物の屋や壁を洗浄器で洗い、家の周りの土を15センチ前後掘り起 こし、そこに新しい土を入れ替えるという作業です。取った土はというと捨てる仮置き場もなく、各家の庭先に袋に入れたまま放 置しておくのです。こんな形ばかりの除染をして本当に大丈夫なのでしょうか。 また、先日、私事ではありますが、東京の親戚においしいリンゴを送ろうかと思い、電話をかけたところ、「うちには子供がい るので福島県のリンゴはご遠慮させていただきます。」と断られてしまい、その言葉を聞いたときに原発事故からもう3年になろ うとしているのに、改めて風評被害の重さを実感することができました。今、世界中で一番安全な農作物・水産物は一つ一つ検査 をして出荷している福島県の食べ物だということを皆さんにもわかっていただきたいのです。そんな原発と放射能に向き合って 生活をしている福島県には視覚障害者の手帳保持者が6,100名ほどおられ、現在でも県内外に300名前後の被災者の皆さん が仮設住宅や借り上げ住宅、さらには息子の家や施設などに慣れない環境の中で厳しい避難生活を余儀なくされています。 最近では、避難生活に少し慣れたといっても視覚障害者の場合は、とかく移動が自由にならないため運動不足や精神的ストレス がたまり、孤独な生活になりがちだと聞きました。特に福島県の場合は特殊な例で、原発と放射能という問題をかかえており、今 後、もとの生活に戻れるには何年・何十年かかるかわかりません。 そこで、私たち団体として県内視覚障害者のいろいろな支援はもとよりストレスに悩む県内外の被災者を中心に心のケアを続け ていくことが最も重要な課題と考え、県当局に支援センターの増員をお願いしてまいりました。 現在の体制では、外に出かけることも できずきめ細かな支援やケアをしてあげることができません。そんな私たちの希望もかないこのたび福島県緊急雇用創出という形で昨年の10月から支援 センター職員を2名増員していただくことができました。今後は支援センター職員を中心に電話での生活相談やときには 積極的に外へ出かけ、悩みを聞き、視覚障害者をはじめ、被災者の支援をしながら心の支えになれればと考えております。このよ うな成果をあげられたのも、日盲連をはじめ、東北の皆さん、全国の皆さん、そして、県当局の皆さんのご理解があればこそとこ の紙面をお借りいたしまして心から感謝申し上げます。しかし、災害・防災に関する課題は、まだまだ山積みにされており、各団 体をはじめ一人ひとりが真剣に考え、今後も取り組んでいかなければなりません。昔から「災害は忘れた頃にやってくる」と言い ますが忘れた頃にやってきたのが千年に一度という今回の東日本大震災と原発事故だったのです。お読みいただいた皆さんにと ってこの情報誌が防災を考える一冊としてまた、災害を忘れないための一冊として、いつまでもお手元においていただきお読みい ただければ幸いです。 最後に皆さんと共にこの言葉をもう一度考えてみましょう。 「災害は忘れた頃にやってくる」 3.11あの時の風景(福島編) 『東日本大震災を振り返って』 公益社団法人 福島県視覚障がい者福祉協会 東日本大震災の福島県における死者・行方不明者は1,800人に達している。さらに、震災関連死の人数は1,380人を越 えた。福島県の死者・行方不明者は宮城県、岩手県に次いで3番目に高い数字である。しかし、関連死の人数は全国の50%以上 を占めており、その割合は全国一となっている。関連死の数字からもわかるように、福島県には、長期に渡ってストレスを抱えて 苦しんでいる被災者が多いことを物語っている。そして、原発事故による放射能被害で長期避難を強いられ、いつ故郷に戻ること ができるか見通しが立たない状況が今後も続いていくことになる。 平成23年3月11日の東日本大震災による福島県の被害は、地震や津波によるものだけではなく、原発事故による放射能被害 が加わった。地震翌日の3月12日午後3時36分、東京電力福島第一原子力発電所1号機が爆発事故を起こした。原因は、津波 による被害で原子炉を冷却する電源が失われたためである。その結果、燃料を冷やすことができなくなり、燃料が露出して水素が 発生し爆発が引き起こされたのである。2日後の14日午前11時1分には、3号機も爆発した。水素爆発と同時に、高濃度の放 射能が空気中に大量に飛び散って、大きな被害を福島県民に及ぼすことになってしまった。放射能の被害から身を守るため、原発 周辺部の市町村を含めて約12万人近くの住民が避難することになった。その中には3,000人近くの視覚障害者も含まれている。 震災直後の様子を県内の視覚障害者に聞いてみた。避難した視覚障害者のほとんどは、何の説明もなかったため、理由もわから ないまま一方的に避難を強いられ、不安と恐怖の時間だったと話していた。地震があった3月11日、津波や家屋の損壊を恐れて 体育館や福祉施設に避難して一夜を明かし、家に戻ろうとした早朝に強制的な避難が始まった。市町村の広報車や防災無線で、原 発から10キロメートル圏内に住む人たちに総理大臣の避難指示が出された。その夜には、避難指示が20キロメートルに拡大 された。避難した多くの人は、数日で家に戻れると思っていたので、わずかな現金と通帳と携帯電話くらいしか持ち出さなかった ようである。気が利いた人でさえも、毛布や上着、薬、そしてわずかな食糧程度であった。現在も戻れない状況になろうとは、誰 も予想してはいなかった。そして、避難所は行く先々で変わり、多い人では体育館や旅館、知人宅など6カ所を経由して仮設住宅 に落ち着いた人もいる。 本協会の会員248名の全員の安否が確認できたのは約1か月後で あった。会員に犠牲者はいなかったものの、本県では11人の 視覚障害者が犠牲になってしまった。 仮設住宅での暮らしは決して快適とは言えない状況に置かれている。仮設住宅は市街地から遠いため、買い物が不便である。 そのため、一度の買い物で 1週間分を買いだめする。食料を長く保存することや、仮設住宅の調理器具が使いづらいこともあって 、カップ麺やパン類やレトルト食品が多くなってしまう。市町村からは、健康管理のため肉類や野菜をバランスよく取りなさいと通 知があっても、調理を手伝ってくれる人がいないと無理である。 次に、体力の問題である。仮設住宅のような知らない土地では、ふる里のように自由に歩くことはできない。 なぜなら、足裏の感触や音、臭いや風向きなどが違うからである。毎日のように出歩いていたふる里のようなわけにはゆかず、 週1回か2回の外出が精一杯となり、足腰も弱ってくる。2年が経過したある日、仮設住宅内で転んだり、 ふらついたりする話を聞いた。この先、弱らないでほしいと願うしかない。さらに、病院に通うことが不便な ため、通院をがまんしたり回数を減らしたりすることが多くなったという。ヘルパーの派遣もあるが、緊急時や回数を考えると 外出は控えめにならざるを得ないと聞いている。 福島県では、長期化する避難生活者が県内外に15万人いると言われているが、本協会で把握している視覚障害者の避難者はご く一部である。市町村と協力しながら、会員はもとより、非会員にも情報を発信して復興に協力しなければならない。原発事故に よる放射能被害が収まるのは30年以上かかると聞いている。長期化する避難生活の中で、孤立する人も多くなってきており、 本協会が相談や支援活動を通して関係を築き、意欲をもって生きるために積極的にかかわっていかなければならないと感じている。 『あの避難所からの逃避行はいつ終わる』 南相馬市小高区 三上 サト子 目に見えないものに怯え・苦しむ私は津波の警報と同時にどう命令したかわかりませんでしたが、盲導犬のスイミーと一緒にみ んなのいるところまで逃げることができました。今こうして私がここ栃木県鹿沼市に避難していられるのはスイミーのおかげで す。それと隣の方の声掛けや消防のどなたかはわかりませんでしたが、声をかけていただいたおかげで家族と津波から逃れること ができ、家は常磐線の線路のおかげで、床下浸水で済みました。 でも建物は地震でどうなったかわかりませんでしたが、避難所二つ目にしてやっと座ることができました。避難所には一人暮らし の人や津波から逃れてきた人たちであふれ、そこはとっても寒く、体育館にはストーブが一つしかなかったので体育館用マットを 引き、もってきた毛布にくるまっていました。こんなときです、贅沢は言えないと思い誰もが寒いとは声を出さずに身内の安否 を気遣っていたのです。その心がわかるだけに余計に寒さが身に感じます。強い余震はいまだ収まろうとはしません。眠れないま ま、私は繋がらないとわかっている携帯を操作しながら、その夜は不安のうちに一夜を過ごし、朝を迎えました。相変わらず寒く 朝ご飯はありませんでしたが、誰もご飯のことは言わずに孫も何も言わなかったので、すごく親・バーちゃん二人は安心しました。 息子夫婦は「家見てくる」と言ってバーちゃん二人と子をおいて体育館を出て行きましたが、まもなく帰ってきた二人は建物も被 害はあったが家から見る海岸の光景は目を静止できないくらい変わっていたと言っていました。息子のいうことには「まだ正式 に発表されていないから声をださずに聞いて」と釘をさされ、話を聞くとなんと原発が爆発したと聞き、体が小刻みに震えました。 私は息子に「では家に10年は帰れないね」と言ってはみたが、そう思えば思うほど悲しくて残念でなりません。そして、その日 の6時ごろ区の職員から原発についてどのような爆発がいつ起きたかどうなっているのか、どこへ避難したらいいのか、何の説 明もなくただ「逃げてください」というばかりです。すると、避難所全体が我も我も早く人は入口に殺到し体育館から離れてい きました。「私ならどこでもいいからね」と言ったバーちゃん。 私たち家族も孫の被ばくを考え、できるだけ遠いところまで逃げることを決断しました。そのときは山を越えてゆけば放射線は低 くなると考えておりましたので、気象の風向きは私の頭にはありませんでした。運が悪くその時の風向きは不幸にも北西に吹いて いたのです。しかし、遠くまで逃げるにしてもガソリンが乏しくなり山は越せないとわかったのであきらめ、そこで市内への避難 所を探しましたがなかなか入るところがみつかりません。やっと入るところがみつかり、落ち着いたときは、もう10時ごろにな っていました。とにかくここまで何とか避難してきましたが、ここから先はどうしたらよいのかわからずにみんなが途方に暮れ ていました。誰もが目に見えない放射能におびえ恐怖と不安を胸に、この先どうしたらよいかみんなで話し合ってはみましたが、 その人その家族の考え思いがちがうので、どうだと一言には決められないままに避難所の中はいつのまにかすし詰め状態になっ てきたのです。まさに避難所は人間の缶詰でした。 それは年寄りから赤ちゃんまでが体の丈夫なものも弱いものも障害があるとかないとか言っている場合ではありません。見えな い私にとっても何か心にほっとするものがありました。しかし、その避難所にはガソリンがなく、いくら考えても仕方がないので すが、山を越して逃げたくても逃げられないと悩んでいました。周りの数名の人は、どこからかガソリンを見つけてきたらしく、 少しずつ知人の家に行く方や山を越えて避難する方も出てきました。それでもやはり中は缶詰・すし詰め状態に変わりありませ ん。やっと物資を息子が運んできてくれたときは、とっても嬉しくでもそれがあるからといって自由に食べることができず、隣に いた方にも少しずつ分けてあげるのが精いっぱいでした。そのとき息子がいた時間は仕事の都合もあってわずか10分〜15分 でしたが帰った後はさびしくてそれも仕方がありません。体育館の中は人が動くたびに埃が舞い上がり空気が悪くなって、のどや鼻が痛くなり、 マスクを2枚重ねてものどや鼻・頭が痛くなるばかりです。いくら我慢ができると言ってもトイレだけは困りました。ようやく 避難所にも仮設のトイレができ、私も連れていってもらいましたがびっくり。 それは子供用のトイレでした。同じものをとりあえず大人も使うと聞き、また、びっくりです。中に入ろうとしても上がり降りの段差が高いことや汚れている、 便器の向き・水洗レバーの位置がわかりにくく手で確認することができません。 そのうえトイレは和式でしたので膝のわるい人たちにとっては使用がたいへん困ったようでした。寒いせいか大勢の人 たちが次から次へと使用するのでタンクの水がたちまちなくなってしまいます。そのたびにプールからバケツリレーで補充をし ます。物資のあまりない避難所生活は予想もつかないほど大変でしたが、バケツリレーでもわかるように寒さとストレスの中にも 助け合いの精神が表れていました。ようやく少しガソリンも手に入り、私たちは南相馬市から出て向かったのは須賀川市でした。 着いた先は須賀川アリーナという避難所です。ここに私も一泊しましたが避難所生活にも疲れ、薬もなくなり体調はあまりよく ありません。そこで日頃から丈夫でない私を少しでも手足の伸ばせる所と考え、息子たちは相談して栃木県の息子の家に行くことに しました。車でスイミーと一緒に向かった先は鹿沼市です。 人間以上に繊細な神経の持ち主のスイミーは慣れない環境の中で私以上にストレスがたまり大変だったことでしょう。 そんなスイミーと私は1晩息子の家ですごし別れるのはつらくさびしかったけどこれもスイミーのためだと思い決心をして協会に 預けることにしました。「いつも私の目となって歩いてくれたスイミー本当にありがとう御苦労さま今度きっと会いにくるからね」と いって頭をなでお別れしましたが別れ際に悲しそうに泣くスイミーの声に私も涙が止まりませんでした。その日からスイミーは 疲れとストレスからリタイヤしてしまったのです。 その足で医者にかかろうとしましたが避難のときなにももってこなかったので保険証はなし、お薬手帳もなし、障害者手帳もな し、そのうえ三上サト子と証明するものが何もなかったので事情をお話ししましたが、県外の医者にかかることはできませんでした。 こんな災害の時こそ本人証明がなくても診察をしてくれたらと思いながら待合室でぼんやりしていると困っている様子を見 て看護師さんが「実費なら大丈夫だと思いますよ」と声をかけてくださいました。ちょうどそのとき私はお金も持ち合わせが少な かったのですが、とりあえず診察をしていただきました。 先生の言うことには高い血圧を下げるには今ゆっくり休むことが一番の薬だと言われ、1週間分薬をいただき病院を後にしまし た。息子のところに帰り、薬を飲んで時間を忘れ昏々とどのくらい眠ったことでしょうか。ふと目を覚ましてみると外の様子は二 日目の夕方のようで頭の重いのも少しらくになり、お腹が空いたせいか久しぶりにご飯を美味しく食べました。痛かった歯もようやく楽に なりましたが、今度は口内炎や顔の吹き出物がひどくなり、それもあって熱が少々出てしまい、人の前にはでることができません。 皮膚科で診察をしてもらい薬をいただきましたが、よくならず増えるばかりです。そこで、皮膚科を変えてみたら避難生活からくる疲れと ストレスが原因と分かり薬を使わずに時間をかけて少しずつ治すことにしました。 しかし、不幸は続くものです。そのとき体重の減少にも気が付き免疫力も落ち始め新たな病気がまたでてしまい、 私は驚いてしまいました。災害は恐ろしいもの、自然界だけでなく人間の体も蝕んでしまいます。 それからというものは治療を続け息子の時間をみては散歩の生活でした。 でも息子の仕事や都合もあってそれもできなくなり、やむなく兄のところへ行くことを決意し、兄夫婦の世話になることにしました。 その後もしばらくの間、散歩と治療を続けていると顔のデキモノは落ち着きお医者さんに大丈夫だと言われたので治療は終わりました。 兄夫婦には本当に世話になり感謝の気持ちでいっぱいです。体調も、少ずつ良くなり始めたので息子に迎えに来てもらい再び鹿沼市に戻り、 鹿沼での生活が始まりました。本来なら、みんなでこうして暮らしているのですから気持ちも落ち着いていいのですが、先々のことなどを考えてしまうと 不安になってしまい何かが違います。気を紛らわすために外へ一人で出ようとしても慣れない環境と土地勘がないため散歩することができません。 家の中ばかりにいるといろいろなことを考えてしまい気持ちが悶々としてしまいます。ついつい携帯電話をかけまくり携帯依存症になってしまい電話代がかさみ 息子にどやされる日々が続きました。携帯が傍にないとなにかイライラしてくるのです。 そんなとき白杖をうまく使って歩けばと思い、福祉課や友に聞き、ひと月2回で10回の指導を受け料金は少しかかりました。勇気 を出して表に出てみてもそんなには、すぐにうまく歩けません。 道を間違えてしまい山の方に入って出て来れなくなったこともあります。 私は少しでも外に出ようかと思っていましたがそんなこともあって誰かが家にいるときだけ出るようにと言われる始末です。 特に、バーちゃんは私が表に出ると心配で心臓がドキドキするというので外に出るのをやめました。ですので家の周りさえもなか なか覚えられません。そんな心の沈みがちな時にスイミーのリタイヤ先もわかりうれしいことに福島県盲人協会から「元気かい」 という電話もいただき会長さんともお話しすることができました。また、うれしいことは続くものでスイミーを一年間育ててくれた 横浜の岡村仁美さんとも連絡がとれるようになり、元いた津市のヤマバトの会の皆さんと遠いところにもかかわらず栃木県 鹿沼市にきていただき、お会いすることができました。そのとき音訳したデイジーを持ってきていただき楽しみに聴かせていた だいております。いまでも電話をしたり、楽しい交流が続き私の心の支えになっています。 そのうえこの会を通して皆さんに声をかけていただき、昨年の5月に2年と57日ぶりになりましょうか南相馬市小高区の我が故郷に足を踏み入れてきましたが、 私はただただ涙が出て茫然とするばかりです。また、家の中に一歩足を踏み入れるとカビのにおいやネズミのおしっことウンチの汚れたにおいで、 目・のど・鼻が痛くなってしまいそのあり様には言葉も出ず悲しみに押しつぶされるばかりでした。 たとえ帰ったとしてももうこの家に住めないと思うとまた、涙がこぼれてしまい周りの風景をみても津波に押し流された船や車が今も野ざら しにされています。もう一つの大きな悩みは、原発の問題です。 私の住んでいた小高区は福島原発から20キロ範囲内でいまだ帰宅できずようやく除染が始まり、家の周辺の木の皮は、 はぎ取られ枝は切り落とされ一緒に行った方はみんな口をそろえて目を覆いたくなるような光景だというのでした。 今、除染をしたからといってどうなるのかわかりませんが、畑や田んぼも同じで、いつになったら農作物が作れるようになるのでしょうか。 誰もがわからずに迷いさ迷う人の心を思うと胸が締め付けられ自殺をしたくなる人の気持ちがわかるような気もします。 ここはみんなで考えてゆかなければなりません。 今までは、放射線量を測らなくても済みましたが、でも今は測らずにはいられないと友はいうのです。 この放射線と簡単にいっていますが、目に見えないお化けよりもっとこわく、もっと恐怖に感じます。これを恐怖と思わずに過ごしている人はいないと思 いますが、早くこの逃避行が終わることを祈るばかりです。これから先、何事もなければこの逃避行中にもいろいろな方にお世話 になると思います。いままでもたくさんの方にお世話になりました。あのモンゴルからきて通訳をされていた方に入れていただい た、おいしくて温かい心のこもった一杯の紅茶の味はきっと一生忘れることはできないでしょう。 また、私の周りの人はいつも電話をかけてよこし励ましてくれるのでなんとか元気になってきましたが、病気は体を食いつくすの か私が病気を食うのかどちらが先になっても今はこの日を大切にしたいと思っています。私は、最近同行援護で使える散歩をし ながら季節の変わりゆくことを耳で知り、頬に触れる暑さ寒さの空気を知り、歩ける喜びを体で感じつつ散歩する方との立ち話を 楽しんでいます。ときおり犬をつれている方との出会いがあればスイミーを思い出し、今は思いだせるのがうれしく感じるように なってきました。 また、デーサービスも利用できるようになり、出かけて行っておいしいお料理をいただき、皆さんのカラオケを聴かせてもらい中 学生の勉強会という紙芝居をたのしみみんなにお世話になっていつも帰宅します。これからもまだまだこの逃避行は続き、見通 しのつかない原発に怯え苦しみ、体がぼろぼろになり、それでもいつか我が家に帰れる日を夢に見ていつまでも元気で避難生活 を過ごしたいと考えて居ます。それを信じることが今の私にとって一番の薬であり、心の支えでもあります。 最後に私は現在も東日本大震災に伴う東京電力福島第1原発事故と津波により栃木県鹿沼市の息子の家に避難をしています。 書きたいことはいろいろありましたがあまりにも多いのでなにを書いたらいいのか悩んでしまいました。思いつくままに書いて しまいましたが、まとまらない文章になってしまったことをお詫びし、お読みいただいた皆様方にこの震災と原発事故を通して何 か感じていただければ幸いです。いままでお世話になった皆さんこれからもお世話になる皆さんに心からの感謝とお願いを申し あげ「あの避難所からの逃避行はいつ終わる」を閉じさせていただきます。 『早く戻りたい緑ある自宅へ「あの日あのとき」』 南相馬市 矢島 秀子 福島県は南相馬市小高区に私たち家族4人が住むようになったのは、昭和53年12月25日でした。駅前にあるラーメン屋 で食べた一杯のラーメンの味に家族みんなが感激し、おいしいラーメンがあれば知らない土地でも暮らして行けると互いに励ましあいました。 そのころは合併前で小高町でした。私の眼の不自由なことを知り、役場や、学校・病院・商店街の近い、街の住宅に入居させていただき、 バスや電車で隣町の眼科へ一人で出かけたものでした。連れ合いは、原子力発電所6号機の建設現場で、 朝から夜遅くまでよく働いてくれ生活も安定しておりました。二人の息子に原発の素晴らしいことをよく話して聞かせ、自分の仕事に誇りを持って 働いておりました。連れ合いは、昭和から平成に年号が変わった年に癌になりこの世を去りました。 小高区は自然が豊かで家族で海に山によく出かけました。山菜を取り、魚釣りや昆虫採集も行い目の不自由な私も一緒に出かけ、 良い子育てができたと思います。 「網膜色素変性症」の私の視野は50歳を過ぎると進みだし、よくけがをするようになりました。白杖を勧められて訓練を始めた ころ同じ町に住む視覚障害者の方と友達になり、点字を教えてくださるボランティアの方を紹介してくださいました。 盲導犬と一緒の友は、よく誘ってくれるので一人歩きにも自信がつき、買い物やコンサート・交流会へ出かける楽しみが増え、忙 しいときもありました。難しい点字も少しずつ読めるようになり、本を読む楽しみも取り戻すことができました。息子たちも結婚し て親になり、私は二男夫婦と孫の4人で暮らしておりました。 気候も温暖で地域の人も優しく、何の苦もなく、生活をしておりましたが、平成23年3月11日午後2時46分あの東日本大震 災を期に総ての環境が一変してしまいました。立ち上がることもできないほどのものすごい揺れ方にコタツに頭を隠して耐えま した。何かが割れる音が続けざまになって身の危険を感じ、外へ這い出した時は夢中でしたが、逃げてきた近所の方が声をかけて くださって安全な駐車場へ連れ出してくれました。そのうえ、まだ強い余震の続く中を私の上着と靴を取りに行ってくださいま した。その日は風が強く、家に一人でいましたから、本当に助かりました。あちらこちらでガスボンベが倒れシューシューとすご い音がして臭いもきつく、いまにも爆発するのではと不安でたまりませんでした。瓦の割れる音が絶えず聞こえ防災無線は「児童 を迎えに来るように」と繰り返し叫んでいます。 私は近所の人たちと一緒に家族の帰りを待ちました。4時近くになると車で帰ってくる人が多くなり、私の家族もけがもなく、無 事戻ってくることができほっとしました。 区長さんと組長さんが忙しく住民の名前を大きな声で呼びながら駐車場の中を回っています。防災無線は津波警報に変わりました。 私たちの所からは里山に隠れて海は見えませんが、海までは、約2.5qほどあります。相馬市や原町の北から富岡や双葉・ 浪江の南の勤め先から戻った人たちが話す大津波の被害にはだれもが息を飲みました。海辺の地域を跡形もなく飲み込み国道6号 線を飛び越えて、常磐線の線路際まで津波が押し寄せ、海が近くに見えているというのです。近くの椙の枝に琥珀チョウが11羽 飛んできて止まったと聞き、私は「不思議だなー」と思ったものでした。 あの時津波は近くまできていました。 余震は依然として変わらず続き、ときどき地鳴りをたてて揺れます。風が強くなり電気はきていましたので、家の中に息子が入 り、冷凍食品をレンジで温め、とりあえず夕食を取ることができました。そして、11日の夜は車の中で眠れない一夜を過ごしま したが、ときおり海辺に住んで家を流された方がはぐれた身内を探しに来られ、本当になんと声をかけてあげたらいいのか言葉が 出てきませんでした。 12日の朝になり、早くから防災無線は水の配給場所や避難所の場所を知らせていました。しばらくすると、浪江に住む方が「浪 江の町の交差点にはロボットみたいな白い服を着て原発が爆発しそうだから、津島か三春の方へ車を誘導している」と知らせに きました。まさか、あの頑丈な原発がと思いましたが、自治体や防災無線からは何の情報も入ってきませんでしたので、私たち家 族4人は駐車場の車の中にいました。 我が家の屋根瓦もだいぶ落ち、土台から家が少しずれたというので、近くの工業高校の体育館に避難をしました。中は混雑して いましたが奥の方に座ることができ知り合いも多かったのでほっとしました。でも外にある仮設のトイレには特に気を遣いました。 いつも私は夜中に一度トイレに行く習慣があるので、この日も寝ている人に触れたりぶつかったりはしないかと心配をしながら  外に出てみてもトイレはなかなか見つかりません。夜中ですので人に頼むこともできず、悔しくて悲しくてついつい涙が出てしまいました。 ようやくみつけて入ろうとしても、高齢の私には段差が高く、余震で揺れるトイレにはつかまるところもないので、倒れそうになってしまい利用するのが大変です。 それに便器の向きや水洗のレバーの位置がわかりにくいのにも困りました。そして、全ての環境も変わり、戸惑いなにもすることがないので横に なっていると、どこからともなくラジオの音が聞こえてきました。 耳をすましてみると県外状況も少しずつわかり、遠くにいる親戚のことが心配になってきました。私はじっとしておられず、 ようやくたどり着いた公衆電話の受話器を手にとって、宮城県にいる親戚の無事を確認することができました。 体育館には身内を探す方が多くみられ繰り返し名前を呼ぶアナウンスの声が流れていました。 外は、今朝からあいかわらず冷たい風が吹いています。昼はこんな混乱のなかでも、食事を届けてくださる方々に感謝をしながら温かい大きなおにぎりを おいしくいただきました。 夕方になりだしたころ突然避難所の移動を告げられました。原発が危ない、20キロ圏外へ。ざわざわした館内が静まり返り、 だれも先を争うこともなく車で北へ向かってゆきました。原発事故は次々と起きてしまい、私の家族も原町の親戚を頼りましたが、それもつかの間17日の朝 早くに南相馬からも逃げだしました。 スーパーが・病院が・薬局が4日の間になくなってしまい、住民も一部の人だけが残り全国に散らばってゆきました。 17日の朝は冬の寒さも特に厳しく、ガソリンも乏しくなり、車の中は冷え切ってしまい孫の毛布にくるまっていました。 飯館村を通り川俣町に入ると雪がちらちら降っていて路面が白くなり始め、他に車はなく、私たちと親戚の車だけでした。すると、 突然けたたましいサイレンの音が近づいて反対の方向へ走り去ってしまいました。バスを先導していたそうです。あんなスピードでしたからとうとう 南相馬にも死の灰が降ってしまったかとさえ思いました。とりあえず私たち家族は、会津方面に向かいましたが、そこは大雪で無理だとわかり、栃木県那須町の知り 合いを訪ねることにしました。ところが知り合いの家も地震の被害は大きく、建物が壊れ、停電・断水が続いて困っておりました ので、迷惑をかけては悪いと思い、道の駅の防災相談所で避難所を聞いたところ、国立塩原視力障害者センターを紹介していただ きました。センターも地震で建物が一部壊れ、満員で入ることができませんでした。そこで、遠い三重県が最後と考えておりまし たので、センターに車を預け、那須塩原駅までタクシーにのり、新幹線を乗り継いで夜遅くに三重県津市につきました。親戚の人 はニュースを見て心配していましたが、みんなの顔を見たら安心されたようで私も来てよかったと安堵しました。そして、夜遅い 時間にも関わらず温かい食事を御馳走になり本当に長い長い一日でした。 明日からまた、慣れない土地での生活が始まります。孫のことも考えて借り上げ制度のない津市の県営団地に入居することにしました。 4月に入ると息子は原町区の会社にすぐ戻り私たちは10カ月ばかりを三重県でお世話になりました。三重県は花の季節を迎 えておりましたが、被災地のこと、特に原発のこと、それに余震の続く中で仕事をする息子のことが気がかりでいつもラジオか ら離れることができませんでした。また、避難先でイジメにあうニュースを聴いては胸が痛み、下校して来るまで孫のことが心配 でしたがときどき担任の先生が訪ねてこられ明るく友達と一緒に学校を楽しんでいる様子を話してくれるのでそんなときは ホットします。日を追うごとに三重の言葉に慣れて食事時はまねをしてはみんなが笑顔になります。私は知らない土地に慣れるこ ともなく、ラジオの傍にいて風評被害に腹を立てながら「福島です」とはっきり言えない自分にも腹が立ちました。 5月も半ばを過ぎたころ、離れ離れの友達とも連絡がつくようになり、元気を取り戻すことができ、遠く離れた故郷が次第に恋 しくなりました。きっと孫も原町区の職場に復帰しているお父さんに早く会いたいことでしょう。その後原町区の一部が避難解除 になり、私たちも仮設住宅の申し込みをしましたが、家族4人で住むには狭すぎるので2度見送りました。それでも四畳半3部屋 を二部屋に使えるように作ったと言うので帰れなくなっては困ると思い、24年1月8日に小高区の住民が多く入居している鹿 島区の仮設住宅に入ることにしました。とりあえず住宅には最低限度生活ができるだけの設備は整っていますが、部屋の狭いのに はなかなか慣れることができません。孫と寝床が一緒なのは私にとってうれしいのですが、育ち盛りで部屋がいよいよせまくなり、 最初から離れて暮らすのがこの子にはよかったのではと思うようになりました。それに隣の壁も薄く、しゃべる声やテレビの音 が聞こえプライバシーを守れないのも一つの悩みです。また、私は南相馬に帰ったら白杖で思いっきり外へ出ようと楽しみにし ていましたが、仮設は砂利道で目印もなく、工事の車や一般の車も多く、建物も長屋のようで、一人で歩くことができません。 交通の便も悪く、車を持たないと不便な場所です。そんな仮設での生活も1年と11カ月が過ぎ、いまでも放射能のことは毎日頭か ら離れません。 最近洗濯物や布団を外に干す家が増えてきましたが不安になってしまいます。孫の食事も心配になります。内部被ばく検査もうけました。 家族全員異常はありませんでしたが、周囲に放射線量の高いところもあり、事故があった原発では、いまでも毎日のように小さなトラブルがあると ニュースで伝えられております。 まだまだ安心はできませんが、24年8月に公益社団法人福島県視覚障がい者福祉協会の働きかけで、相双方部(そうそうほぶ)を立ち上げることができ、 それを期に地域の会員たちとの交流も始まりいろいろな支援が受けられるようになりました。 早速、声で線量を知らせる「しゃべる線量計」を永久貸与でされ、そこに住む私は線量計のお知らせの音で、一日が始まり不安な気持ちを安心させてくれます。 今、私たちの住んでいる南相馬市の視覚障害者が困っていることは自由に外出ができないことです。 障害者自立支援法が改正され、同行援護事業がスタートし視覚障害者のガイドヘルパーが保障されたと聞きますが、それは大きな都市のことだと思います。 特に、南相馬市では、いまでも人口の流出が続いており、人不足のためガイドヘルパーも少なく、頼んでもなかなか利用できません。 ここにも地域格差が表れています。それでもうれしいことになんとかサービスを受けられるようになり、私は月に4時間仮設の近くを散歩のために利用することができ、少しずつ頭の中に地 図が浮かぶようになりました。 そして、一人で外へ出かける気持にもなり、白杖を頼りに歩いていると「矢島さん気をつけてね」と近所の方が声をかけてくだ さいました。「矢島さん大丈夫かい」と、ひときわ高い声で集会場の管理人さん。「ありがとう」と私も挨拶を返します。 今では周りの人とも立ち話をするようになり楽しんでおります。地震の時、近所の方に助けていただきました私は、ここに住んでいるこ とを知ってもらいたいと思います。 そんな仮設住宅の生活にもだいぶ慣れましたが、福島県の復興はまだまだ遅れていて、やっと小高区は始まったばかりです。原発 に近い街には、今なお人の出入りが自由にできず、手の施しようもなく、また、原発の汚染水は近くに住む人だけではなく、地球 全体の問題です。世界の科学者にぜひ取り組んでほしいと切に願わずにはおられません。復興のためにたくさんのお金が使われて いると聞きますが、仮設住宅で暮らす私たちの生活は、入居した時と同じ状況です。買い物・散歩・通院・栄養等について心配することばかりです。 お願いすることはたくさんありますが、今回の震災と原発事故ではいろいろな方にお世話になりました。 ボランティアの皆さん・近所の皆さん・福祉関係の皆さん・それに数え切れないほどの多くの皆さんにもお世話になりました。 本当にありがとうございます。これから先、私も何年生きられるかわかりませんが、長生きをして皆さんから授かったこの命をい つまでも大切にしながら、けして感謝の気持ちを忘れず、逆境の中にあっても強く生き抜いていきたいと考えております。 そして、原発の無い緑あふれる自宅にいつか戻れる日を夢見てがんばり続けようと思っております。 原発はもういりません。私の連れ合いがお世話になった原発はもういらないのです。 【実行委員会の記録】 10月12日 語り部の会 秋田県秋田市 10月14日 語り部の会 山形県山形市 10月20日 語り部の会 岩手県盛岡市 11月10日 語り部の会 埼玉県さいたま市 11月17日 第2回語り部検討委員会・第7回実行委員会 開催地:盛岡マッサージセンター 11月24日 語り部の会 新潟県新潟市 12月21日 第8回実行委員会 開催地:仙台市福祉プラザ ―震災図書情報― 宮城県視覚障害者情報センターでは、東日本大震災をテーマにした図書を視覚障害者向けに点字や音声に翻訳する作業を進めている。 現在までに99種貸し出し、郵送も可能である。 昨年末で点字図書が37種類、音訳図書(CD)が62種類である。 翻訳作業は震災直後から始まっており、センターで活動する約170人の奉仕員が、本の内容から点字や音声に変換できる元原稿を作成している。 伊藤甲一所長は「視覚障害者にも震災の状況を伝えようと頑張ってくれ ている」と話している。 主なものは以下のとおり。 <点字図書> ・「大震災のなかで 私たちは何をなすべきか」  内橋克人著(岩波書店) ・「沈黙の海2011・3・11東日本大震災追悼詩集」  菊田郁著(潮出版社) ・「原発放浪記 全国の原発を12年間渡り歩いた元作業員の手記  川上武志著(宝島社) ・「つなみのえほん ぼくのふるさと」  くどうまゆみ著(市井社) ・「河北新報のいちばん長い日 震災下の地元紙」  河北新報社(文芸春秋) <音訳図書> ・「ダライ・ラマ法王、フクシマで語る 苦しみを乗り越え、困難に打ち勝つ力」  ダライ・ラマ14世著(大和出版) ・「永遠に語り継ぎたい3・11の素敵な話」  やまだひさし著(ぱる出版) ・「震災の石巻−そこから 市民たちの記録」  創風社編集部(創風社) ・「官邸の100時間 検証福島原発事故」  木村英昭著(岩波書店) ・「原発はいらない」  小出裕章著(幻冬舎ルネッサンス新書)  連絡先は同センター 022(234)4047 <編集後記> 今号では、南相馬市に震災当時暮らされていた方の原稿を中心に編集しました。 未だに自宅には戻れず、仮設住宅や借り上げ住宅、あるいは親戚等で避難生活をされている方々が福島にはたくさんいるものと思います。 その不自由な生活の中で原稿を書いていただいたお二人の方に改めて御礼申し上げます。 このお正月は私も4年ぶりに大島の実家に帰りました。震災以来、初めての帰郷です。両親とは、仙台で何度か会っていました が、やっと帰ることができました。 それは、私の心の中になにか津波の被害に触れてはいけない感覚があったからだと思います。 自宅は震災前と何も変わっていませんでしたが、気仙沼の沿岸部は、あの賑やかだった町が本当に何もなくなっていました。 国道45号線の両脇はいまだに何もありません。 船着き場のエースポートもプレハブです。復興屋台横町が近くにありますが、あまり人が入っている様子もありません。町全体が 沿岸部から内陸へ移動した感じです。 大島の沿岸部も同じようなものです。食堂やお土産屋が並んでいたところはたった1軒だけ鉄筋コンクリート作りの店が残って いるだけです。 私の親戚は、震災前は牡蠣やホタテの養殖をしていました。津波により自宅と船・養殖用イカダを流されました。昨年までは仮 設住宅に住み、ガレキの撤去等をしていました。今年からは大島を離れ、復興住宅に住むそうです。大島にも平成30年には、島 民の念願であった大島架橋がかかります。でも全ては遅すぎた感があります。産業の復興の遅れから、島を離れて行く方々が多いのです。 本当に津波は、想像を絶する力で建物や船・車を飲み込み、押し流し、吹き飛ばして行ったことがわかります。宮城県は瓦礫こ そ取り除かれていますが、そこに住んでいた方々はばらばらになり、きっと元のような生活には戻れないでしょう。 そして、福島の原発に近いところでは、人さえまだまだ立ち入れない状況です。先日深夜の番組で、原発近くの漁師さんのド キュメンタリーを放送していました。いまだに海底の瓦礫を取り除いているそうです。魚は捕れても出荷はできません。決して放 射能汚染があるからではありません。風評被害です。 まもなく、あの震災から3年です。しかし、その影響はまだまだ続くのです。それを私たちは、同じ人間だからこそ語り継ぎ、 確実に次の世代へ残していかなければなりません。今回の情報誌の編集を通して、改めて実感しました。 1月17日には阪神・淡路大震災の慰霊祭が行われています。次の号からは、いままでに起こった大震災の話題にも触れていきたいと考えています。 神戸市、兵庫県、大阪府、新潟県の方々の原稿をお待ちしております。 電話ファックス兼用022−213−5811 メールアドレス senshikyo@mvg.biglobe.ne.jp 編集委員長 仙台市視覚障害者福祉協会 高橋秀信 第X章 まとめ 1.あの大災害から何を学んだか・被災視覚障害者の心のケアと語り部事業を終えて  あの未曾有の東日本大震災から、もう3年余りの月日が過ぎました。多くの人命を失い、いまだ行方不明者も多い。沿岸部では  住み慣れた住宅や社会インフラも大津波で悉く破壊され、想像を絶する状況化でもあり、まだまだ復興が進んでいない現状でもあります。  こうした大災害を経験してみると、私たち視覚に障害のある者は、緊急避難・避難所生活・仮設住宅・地域での被災後の生活等、  どれ一つを考えても災害にまったく脆いことを感じています。3年前の震災と大津波では、東北で視覚障害者は135名余りの尊  い命を失っています。だからこそ、私達自身が震災や大津波の実体験を社会に語りかけて、災害から獲た多くの教訓を風化させる  ことなく、伝えて一般の人や障害者のために防災及び減災の社会システム構築に、自助努力しなければなりません。  そのようなことから、別紙各資料報告の通り、平成25年度は日本盲人会連合、東北盲人会連合、被災当事者と連携を図りなが ら、独立行政法人福祉医療機構社会福祉振興助成事業の助成金を受けて「被災視覚障害者心のケアと語り部事業」として震災支援活動に、 組織を上げて取り組んでまいりました。その活動の一つは、私たち視覚障害者の震災や大津波の体験を記録としてまとめた情報誌 (友歩動「ゆうほどう」)の発行です。 二つ目は、これまでの辛い体験や悩み、被災の日々の生活の意見要望等の生の声を聞くフリーダイヤル(震災ホットライン)の設置です。 また、全国各地へ被災地から出かけて行って直接話を聞いていただく「語り部研修事業」の三つを全国に展開してきました。こうした 活動を通じての、視覚障害者の声を集約するとともに、今後の防災や減災のために下記に報告提言としてまとめました。 一つ目は、緊急避難です。命の助かった方の多くは、隣近所の人からの手引きによって避難誘導された方です。二つ目は、避難 所生活です。様々な情報の伝達手段が、掲示板に記載した連絡だったり、張り紙や回覧板によるものであったため、視覚障害者に は情報が届きませんでした。三つ目は、食事や物資の配給です。 視覚障害者は、一人で行動できない移動困難者であったため「列に加われず困った」ということがありました。また、在宅被災者 には飲食物や衣類や日用品等の配給物資が届きませんでした。四つ目は、避難所でのトイレです。個室内の汚れの様子が分からな かったり、用便後の紙処理ビニール袋が見えないため、投げ込みができず、汚れている袋を手探りでしか処理できなかったことか ら、飲食やトイレを我慢して体調を崩す方も多くありました。五つめは、何と言っても、福島県の東京原子力発電所の事故による 放射能被災避難者の悲痛な声です。原発事故当初は視覚障害者用放射能線量計の配布がなく、被害の恐怖にさらされたり、ガイド ヘルパーの多くが避難者として他地区へ転居などし、外出支援が受けられなくなったことなど、様々な要因から「仮設住宅が壊れ るか私たちの体が壊れるかどちらが先か分からない」と聞いた時のショックは忘れることができません。この事は、長期になれば なるほど心身共に健康を害する要因でもあり、懸念しています。 こうした私達のこの1年の活動結果として、障害者の特性を考慮した、災害時における緊急避難誘導システムを地域社会に早急 に構築整備する必要があります。また、個々の障害特性に熟視した「障害者災害支援専門員や支援員資格制度」を資格制度として 創設していく必要があります。そうした専門員や支援員を育成し、平素の災害訓練や緊急災害時には地域に配置し、的確な支援をす べきです。更には、自治体における「災害支援マニュアル」等の様々な障害者に対する災害対応計画書が作られてはいますが、 もっとも重要なのは一番身近な町における、具体的「誰がいつどこでどうするか」という、災害行動計画の整備こそが最も急務であ ることをここに提言いたします。 このように、三つの事業を全国に展開できたことで、私達視覚障害者は大災害の恐ろしさを再認識できたことは今後の防災や 減災の一助となりました。そして、一般社会に能動的に働きかけてきたことで、私たちが描いて来た目標は達成することができま した。勿論、展開してきたこの事業を基盤として更なる活動を継続しなければとも考えています。 終わりに、被災視覚障害者にはひとりひとりの物語がありました。そうした物語を「被災視覚障害者の心のケアと語り部活動」 として、助成金の糸でつむいでいただいた独立行政法人福祉医療機構に心より感謝申し上げ、結びといたします。 編集後記 震災ホットライン(フリーダイヤル)に声を寄せていただきました皆様並びに語り部として登録し活動していただきました 皆様から貴重な体験談やご意見をいただきました。 また、独立行政法人福祉医療機構の社会福祉振興助成により、こうして報告書を作成できましたことを感謝いたします。 本事業において実施した、フリーダイヤルの心のケアと語り部育成を始めたきっかけは、平成24年に実施した岩手県、宮城県、 仙台市、福島県の会員への被災体験のヒアリングでした。 そのヒアリングにおいて、震災から年数が経過しても見えないまたは、見えにくいことから、新しい環境になじめないことや 震災前の生活を取り戻せないでいることの不安や疲労感を訴える声を多く聞きました。また、自分たちが経験したことを風化させ たくない。この経験を全国に伝え、日頃からの防災や減災に活かしてほしいという意見を受けて本連合として検討した結果、独立 行政法人福祉医療機構の理解を得て、こうして事業を実施することができました。 その結果、フリーダイヤルには83件もの意見が寄せられました。その一つ一つが東日本大震災において視覚障害者が個々に直面した問題が細かくわかる貴重な 事例集を作成することができました。これらは、今後の大規模災害への備えや支援する側が気をつけることなどがわかる内容が多くあります。 この報告書が今回の事業で終わらず、今後の防災や減災にも役立つことを願っています。 また、語り部として25名を登録し、派遣要請を受けて講演を始めることができました。 これから本格的に語り部の活動が全国で行われ、被災した視覚障害者の体験が風化せずに語り継がれていくことを望み編集後記といたします。 被災視覚障害者心のケアと語り部事業 委 員 名 簿 (順不同・敬称略) 竹下 義樹 (社会福祉法人日本盲人会連合 会長) 橋井 正喜 (社会福祉法人日本盲人会連合 組織部長) 及川 清隆 (社会福祉法人岩手県視覚障害者福祉協会 理事長) 柿沼 正良 (公益財団法人宮城県視覚障害者福祉協会 理事長) 高橋 秀信 (仙台市視覚障害者福祉協会 会長) 阿曽 幸夫 (公益社団法人福島県視覚障がい者協会 会長) 被災視覚障害者心のケアと語り部事業 ―― 報告書 ―― 発行日平成 26年3月 発行社会福祉法人日本盲人会連合 〒 169-8664 東京都新宿区西早稲田2−18−2 電話 03-3200-0011 F A X 03-3200-7755 U R L http://www.normanet.ne.jp/~nichimo/